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メッセージ集:2011年11月

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体調が悪かったり、介護が必要だったりして教会に集えない方々のために、毎週の礼拝メッセージの要約の掲載を行っています。教会に行ってみたいけど、いきなり行くのはちょっとな、という方も、ぜひ覗いていってもらえればなと思います。

でもやはり、できることならば教会に来て礼拝にでる方が、メッセージも聞きやすいし恵みも違ってきます。どうしようかなぁと迷っている方、ぜひ一度教会にも来て下さいね!

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2011年11月27日

「良い倉と悪い倉」 マタイ12:22−37 金井辰雄先生

イエスが悪霊につかれた人をいやしたとき、人々の反応は二つありました。 「この人は、ダビデの子なのだろうか。」 パリサイ人たちは、「この人は、ただ悪霊の力を利用して悪霊を追い出しているだけだ。」と決めつけました。主は、明白な奇跡的な証拠をもって現れる聖霊の働きを、故意に冒涜する罪は赦されないと言われました。そう言われるとあわてて“心にもなく” とか“ついうっかり”と弁解するかも知れませが無意識に出たことばにこそ、その人の思いが正直に顔を出したのです。ことばは、その人の心の現れだからです。 ですから、良い人か悪い人かは、ことばによって知ることができるのです。人間の行動は、90%潜在意識からくる情報によるのだそうです。ですから私たちの心に神のことばが植え付けられ、善悪の基準や神の愛が潜在意識に入っていれば、栄誉を受けても高慢にならず、屈辱を受けてもへこたれないのです。私たちは、常に建設的な思考を持って、行動することが大切です。何故なら、信仰生活は、くちびるの告白と決断が行動と一致するとき成長するのです。
<聖書引用箇所> マルコ7:20−23(P79)、 コロサイ3:16(P393)、 ガラテヤ5:22−24(P371)

「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」  マタイ12:35

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2011年11月20日

「さばきを放棄した歩み」 マタイ7:1−5 金井つる先生

同じ神様を信じていて信仰によって一つとされているにも関わらず、小さな違いが大きく感じられ、さばいたりさばかれたりしてしまうことがあります。同じ価値観、同じ使命に生きているからこそ、小さな違いに敏感に反応してしまうのかもしれません。しかし、イエスさまは「さばいてはいけません」と言われました。何故でしょうか?
1、神と人との間に不幸な断絶が生まれるからです。
 1)神との交わりに喜びがなくなる。
 2)人間関係を悪化させる。
2、自分がさばかれないためです。
 他の人を批判するその基準に従って、自分も評価されてしまうため。
3、さばく自分自身に梁があるからです。
 他人のちりは見えるけれど、自分の梁には気付かないというのが、人間の悲しい姿ではないでしょうか?私たちがまずしなければならないことは、自分の中から梁である批判的習慣を取り除くことです。その時初めて、兄弟の目から「ちりを取り除く」というデリケートな仕事をすることができるのです。
<聖書引用箇所> 箴言12−18(P1073)   ピリピ2:3−4(P384)

「さばいてはいけません。さばかれないためです。」  マタイ7:1

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2011年11月13日

「大臣になるヨセフ」 創世記41:25−43 金井辰雄先生

父ヤコブの“いい子ぼっちゃん”だった17歳の少年は、奴隷としてエジプトに売られ、目に見える拠り所を何もかも失ってしまいました。ヨセフは、必死に父の信じている神にすがったに違いありません。そして、「主がヨセフと共におられた」のでヨセフは成功し、主人の家も祝福されたのです。しかし、ぬれぎぬを着せられ監獄に入れられてしまいます。しかし、そこでエジプトの王の献酌官長と料理官長の付き人になり、夢を解き明かし、献酌官長は復職しますが恩人ヨセフのことを忘れてしまいます。相手に良いことをしても、自分の願い通りに事が進んで行くとは限りません。“忍耐学が肝心” それから2年が経って、牢から呼び出され、パロの前に出ました。そして、パロの見た夢がエジプトに訪れる7年の豊作と、その後の7年の飢饉であることを解き明かしました。王は、「神の霊が宿っている」と感心して、総理大臣に任命したのです。 どのような立場や環境に置かれても、神様は必ず私たちと共にいて下さり、そして、そのことに信頼するならば、神様は私たちに必要な知恵と祝福を与えてくださるのです。
<聖書引用箇所> 創世記35:3、 詩篇105:19、 伝道者の書3:11、エレミヤ29:11 

「知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。」   ヨブ記12:13

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2011年11月13日

「十ミナのたとえ」 ルカ19:11-27 岡部高明先生

「十ミナのたとえ」はマタイ25:14-30の「タラントのたとえ」と一見似ていますが、違うところもあります。一ミナは100デナリ(約6000円、1デナリは農園自由労働者の一日の労賃)で、十人のしもべに一ミナづつ商売資金として主人から渡されました。主人は貴族で王位を受けるため遠国まで行き、王として帰ってくるまでの間十人のしもべたちが資金をどのように活用するかをテストしたのです。このたとえは主がエルサレムに入るとすぐに神の国が実現すると期待していた人々に向けて語られました。主が再臨される時まで、主のしもべである私たちが主から委託されたミナ(「福音」または「救いの恵み」)を証として活用することが期待されているのです。

「さて、最初の者が現れて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』」  ルカ19:16,17

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2011年11月6日

「この宝を入れた土の器」 Uコリント4:7−18 金井辰雄先生

私たちは、壊れやすい肉体の中にキリストの福音という光輝く宝を持っています。それは、この測り知れない人を救う力が神のものであって、私たちのものでないことがはっきりするためです。ですから、私たちは、苦しみの中でも勇気を失いません。パウロは、ありとあらゆる患難を受けた人でした。しかし、その患難が彼を行き詰まらせることはなく、自由に生きることができた秘密はどこにあったのでしょうか。それは、神の愛への絶対信頼と強い確信にあったのです。 貧乏が、病気が、死が到来しても、何が到来しても、器がどうなっても、神の平安で満たされているというのは何という幸いでしょうか。私たちに預けられた宝を大切に、そして、心からその宝を人々に証しして行く者にならせて頂きたいと思います。
<聖書引用箇所> 創世記2:7、 イザヤ64:8、 黙示録3:27、 Uコリント11:23−28、 ロ−マ8:32、 ピリピ4:13

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」   Uコリント4:7


◇過去の礼拝メッセージ要約

※2011年の礼拝メッセージ要約
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※2010年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2009年の礼拝メッセージ要約
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※2003年の礼拝メッセージ要約
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※2001年の礼拝メッセージ要約


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