体調が悪かったり、介護が必要だったりして教会に集えない方々のために、毎週の礼拝メッセージの要約の掲載を行っています。教会に行ってみたいけど、いきなり行くのはちょっとな、という方も、ぜひ覗いていってもらえればなと思います。
でもやはり、できることならば教会に来て礼拝にでる方が、メッセージも聞きやすいし恵みも違ってきます。どうしようかなぁと迷っている方、ぜひ一度教会にも来て下さいね!
2011年3月27日
「嵐を静めるイエス」 マルコ4:35−47 金井辰雄先生
4章には、種まきのたとえが語られています。 人の内に蒔かれた種が成長することに関するイエス様の教えです。言い換えれば、信仰者が現実の生活の中に確かな根をおろして成長して行くことについて語られています。そうした信仰の成長を問われるのがこのエピソ−ドです。夕方イエス様は、ガリラヤ湖を船で向こう岸に行こうと言われました。すると、激しい突風が起こり、船は沈没しそうな危険な状態になりました。私たちの人生にもよくあることで、平穏な生活が一変するような大きな試練に直面し、その存在の土台を揺り動かさられるとき、私たちは不安に駆られ自分自身を見失いがちです。しかし、そのようなときこそ静まり、全能の神に信頼すべきなのです。ところが弟子達は、すっかり恐れにとらわれ不信仰を露呈してしまいました。そのような未熟な信仰を明らかにし、弟子達のうちにキリスト理解を深め、彼らの信仰を養うために、この嵐と奇跡が用意されたのではないでしょうか。 主が共にいてくだされば、人生の嵐に遭わないということではありません。大切なことは、どうやって困難を乗り越えるかです。その鍵は何かと言えば“信仰”なのです。主に信頼して嵐を乗り越えることによって、私たちの信仰は更に成長して行きます。 嵐を静めることの出来る主のみことばの力を日々受け取って行くことで私たちの信仰は成長します。
「イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。』」 マルコ4:40
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2011年3月20日
「悔い改めないなら」 ルカ13:1-9 岡部高明先生
東北関東大震災(東北地方太平洋沖地震)は日本における史上最悪の災害となりました。犠牲者のご遺族をはじめ避難者や災害復旧に取り組んで居られる方々に神様からの慰めと励ましと祝福を心からお祈りいたします。著名知事の「天罰」発言に多くの非難が集中し撤回が報じられました。主イエスは当時の神殿での虐殺事件やシロアム池周辺の事故に関して、犠牲者よりも災難を免れた人々のあり方について問いかけられました。今朝の聖句の幅広い解釈にしたがえば、期待されながら実を結ばないいちじくの木は「神を無視して自己中心に生きる私たち」を、伐採の猶予を求めた番人は「私たちの罪を背負って下さった主イエスご自身」を示しているといえましょう。神の寛容の期間を、速やかな悔い改めと、主イエスによる赦しの恵みに応えて被災者の良き隣人として仕える機会として生かしましょう。
「番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」 ルカ13:8,9
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2011年3月20日
「誰のことばを聞くか」 ルカ23:1-25 金井つる先生
23章には、イエス様が十字架につけられる前の裁判が記されています。本来なら裁判は正しく行われなければならないものですが、人間の罪が十字架へとイエス様を十字架へと追い込みました。
1.群衆 人々は、イエス様の愛や慰めに満ちた行為を忘れてしまいました。祭司たちに扇動されてイエス様を「十字架だ。十字架につけろ。」と叫びました。
2.ピラト ピラトはイエス様が無罪であることを知っていました。「この人には何の罪も見つからない。」と言いながら群衆の声の大きさに負けました。自分が裁く立場にありながら、人を恐れ不法な裁判を行ったのでした。
3.ヘロデ 彼は興味本位にイエス様の行う何かの奇跡を見てみたいと考えていました。イエス様に会うと喜びましたが、それは救い主にお会いできたという信仰の喜びではありませんでした。
イエス様を十字架につけたのは私たち一人ひとりの罪です。しかし、それと同時に主はご自分から進んで十字架にかかって下さったのです。それは、私たちを愛する愛故です。主の愛と十字架をより深く覚える時としましょう。
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」 Tペテロ2:24
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2011年3月13日
「捕らえられた女の人」 ヨハネ8:1−11 金井辰雄先生
イエス様が朝早く宮で教えていると、律法学者とパリサイ人が姦淫の現場で捕らえられた女を連れてきました。そして、イエス様に「あなたは何と言われますか。」と詰め寄りました。もし、「石を投げよ」と言ったら、ロ−マに反逆した者として訴え、逆に「見逃してやれ」と言ったら、モ−セの律法を守らない教師としてユダヤ人から追放するつもりでした。どちらに転んでも袋小路です。しかし、イエス様は、何も答えず沈黙され地面に書いておられました。きっと人をさばく前に自分にも罪があることを気づかせようとされたのでしょう。しかし、それでも問いつめるのをやめなかったので「あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい。」と言われると、年長者から始まって誰一人石を投げる者はなく、面目を失って立ち去ってしまいました。ひとり取り残された女に対して、イエス様は、「あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」と尋ねました。「だれもいません。」と女が答えると、イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。」と罪の赦しの宣言をされました。罪を責め合うのが当たり前の社会の中にあって、教会は唯一、イエスにある罪の赦しを語り伝えるところです。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」 ロ−マ8:1
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2011年3月13日
「実を結ばないいちじく」 ルカ13:1-9 岡部高明先生
3月11日、観測史上初の大規模地震、東北・太平洋沿岸地震に見舞われました。M8.8の巨大地震と大津波によって多くの方々の生命と家財が失われ、水産を始め各産業が大打撃をこうむりました。被災された方々のお慰めと速やかな復興を心から願っています。最近、世界各地で頻発している大きな災害や民族間の厳しい対立抗争などの事変から私たちは何を学び、何をなすべきでしょうか。主イエスが語られた「実を結ばないいちじくの木」のたとえから考えてみましょう。
『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』 ルカ13:8,9
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2011年3月6日
「現実に生きて働く神の知恵」 箴言1:1−19 金井辰雄先生
現代社会は、大きな闇の中に羅針盤を失った船が行き先がわからないで漂流しているかのようです。 しかし、そうした中で箴言は、私たちに確かな方向と人生に本当に役に立つ知識と知恵を与えてくれます。箴言(マ−シャル)とは、「ことわざ」と訳され、教訓や倫理的原則という意味です。
T.神の知恵としての箴言
「主を恐れることは知識の初めである。」7節とあります。主を恐れるとは、単なる恐怖ではなく畏敬の念のこと。人間として、主権者である神の前にひれ伏して、畏れかしこむ畏敬の念。
それが、「知識の初め」・・根源であり出発点であり、最も大切な部分なのです。植物で言うなら、根っこの部分。根っこがあって初めて木が成長し実を結ぶように人間も同じなのです。
U.神の訓戒としての箴言
人間というのは、耳で聞いて頭で理解しても心で分かったということになりません。どんなに知的に説明され、悪いと分かっても、人間の意志ではなかなかその悪から離れることが出来ません。そこで、必要になるのは、神の知恵とともに懲らしめ、道徳訓練です。ヘブル12:5−11には、神様が私たちを訓練してくださることが記されています。人生に役立つ真の知識、知恵は、頭でなく、信仰によって神から頂く心と人格の問題なのです。
「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」 箴言1:7
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