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メッセージ集:2010年1月

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体調が悪かったり、介護が必要だったりして教会に集えない方々のために、毎週の礼拝メッセージの要約の掲載を行っています。教会に行ってみたいけど、いきなり行くのはちょっとな、という方も、ぜひ覗いていってもらえればなと思います。

でもやはり、できることならば教会に来て礼拝にでる方が、メッセージも聞きやすいし恵みも違ってきます。どうしようかなぁと迷っている方、ぜひ一度教会にも来て下さいね!

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2010年1月31日

「嘆きから歌へ」 詩篇13:1-6 岡部ルツ子先生

この詩篇13篇は短いのですが、はっきりと三つに分けることができます。1〜2節は「主よいつまでですか。いつまでですか」と4回もなげきのことばが並びます。私たちのだれもが経験するような人間の悲しみ、嘆きのやり切れなさが満ちています。しかし、三段目の5,6節には「私の心はあなたを喜びます。私は主に歌を歌います。」と喜びにあふれているのです。その秘訣は3,4節の神への訴え、神への切なる祈りにあるのではないでしょうか。

「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」 詩篇13:5,6

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2010年1月31日

「老いてなお使命に生きる」 創世記49:1−33 金井つる先生

ヤコブがエジプトに下ってきた時は、130歳でした。それから17年の歳月が流れ、今、彼は147歳になっていました。彼は、その生涯を閉じるにあたり、人生最後の仕事をしようとしています。それは、子どもたちにそれぞれにふさわしい祝福の預言を与えることでした。各部族には、それぞれの特徴と役割があります。それぞれがその役割を果たすことによって、イスラエル全体に仕え、主の前に一つになることを期待していました。それは、現代の教会に対しても、主が期待しておられる姿でもあります。また、彼は人生の最後の仕事を終え、自分のお墓の場所を確認し、自分の民に加えられました。彼は、ただ選ばれた者であるが故に、その恵みに加えられたのです。その人生は波乱に富んでいましたが、まさに神の恵みに貫かれた一生でした。同じように神様は、私たちの人生を恵みに満たし、恵みによって導いてくださるのです。私たちもまた天に召されるその時まで、主の恵みを後の世代に告げ知らせて行きましょう。

「これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。」 創世記49:28

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2010年1月24日

「ユダとタマル」 創世記38:1−30 金井辰雄先生

家族を離れてカナン人の女性と結婚したユダでしたが、2人の息子を失うという悲劇が起こります。夫が与えられないと確信したタマルは、遊女の装いをしてユダをだまして、子どもを得るために肉体関係を持ちます。嫁の妊娠を知ったユダは、激怒しますが証拠を見せられては弁解の余地はありませんでした。そして、「彼女は、私より正しかった。」と認めます。タマルが非常手段に出たのは、単なる嫌がらせや復讐ではなく、約束を果たさないことに対する正当な権利の主張であり、人並に幸せな生涯を送りたいと願う切々たる女心だったと理解したのです。後に2人の男の子を出産します。今やタマルは、大手を振ってユダ家の敷居をまたぎ、嫁としての座に返り咲くことが出来ました。やがて、ユダ族はイスラエルの12部族で最大となり、ダビデ、ソロモンを輩出し、キリストへと継続して行きます。ユダ部族の祝福の源流は、タマルの生きざまにあったと言えます。

「ユダはこれを見定めて言った。『あの女は私よりも正しい。私が彼女を、わが子シェラに与えなかったことによるものだ。」こうして彼は再び彼女を知ろうとはしなかった。』」 創世記38:26

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2010年1月17日

「みことばは、たましいの糧」 申命記30:11−20 金井つる先生

みことばは、生きて働く神の力です。そして、私たちにとって、難し過ぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもありません。私たちの毎日の生活と深い関係があり、いつでも神の真実へと私たちを導いてくれます。開かれた心で聖書を読むとき、聖霊の助けによって人の思いから、神の思いへと導かれます。根強い「自分の思い」から解放されるのです。主との交わりを大切にし、みことばによって歩む幸いな一年として頂きましょう。

「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」 申命記30:14

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2010年1月10日

「みことばを聞く」 マタイ13:1−23 金井辰雄先生

イエス様が語られた種まきのたとえは、神のことばに対する私たちの4種類の心の状態を教えています。同じみことばを聞いても、同じ反応が起こるのかというとそうではありません。同じ太陽の熱を受けても、氷は解け、粘土は固まるように人の反応も様々です。道端のような心とは、みことばを全く聞こうとしない心を意味します。また、岩地のような心とは、信仰の基礎が出来ていないため試練によって躓いてしまうような人を指します。いばらの中にある心とは、神のことばを喜びながらも、この世のことにも楽しみや喜びがって、心が定まらないで実を結べない人を指します。良く耕された良い地のような心とは、“誠実な心で”みことばを聞いて、それを“守り” “忍耐し” “実を結ぶ人”です。 あなたの心はどうでしょうか。 また、伝道の困難さに落胆せずみことばを語り続ける者となりましょう。

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」 ヤコブ1:21

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2010年1月10日

「謙遜と神への全委託」 Tペテロ5:5-7 岡部高明先生

アメリカの第39代大統領ジミー・カーター氏は就任演説でミカ書6:8の聖句を引用しました。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」へりくだり(謙遜)は神に造られた人間の基本的な態度です。特に主に贖われて神の羊とされた私たちは、互いに謙遜を身に着け、神のご配慮と力強い御手に一切の思い煩いを委ねて、神と共に歩み、へりくだる者に約束された神の恵みの証人になりましょう。

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」  ペテロの手紙 第一 5:6,7

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2010年1月3日

「一歩を踏み出すところに祝福がある」 ヨシュア記3:1−17 金井辰雄先生

斥候たちの報告を聞き、主の助けと導きによってこれからの戦いに勝利を得ることを確信したヨシュアは、時を移さず1章2節に記されている主の命令を実行しようとします。ヨシュアは翌日早くシティムを出発して、ヨルダン川の川岸まで行き、そこに泊まりました。そして、主の奇しい御業に与るために、まず民は身をきよめます。不信仰や高ぶりを取り去り、主の前にへりくだり、主に全面的に信頼する必用がありました。そして、「主の契約の箱」を担ぐ祭司たちの足が川の水際に浸った時、川の水がせき止められて民は渇いた地を渡ることができたのです。主の御業は、一歩を踏み出したとき、起こったのです。道が見えてから渡ろうと考えても駄目なのです。目の前に困難の川があろうとも、主は全世界の支配者です。主を信頼して一歩を踏み出すならば、道は開かれるのです。

「あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。 『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」 ヨシュア記3:8


◇過去の礼拝メッセージ要約

※2009年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2008年の礼拝メッセージ要約
 4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2003年の礼拝メッセージ要約
※2002年の礼拝メッセージ要約
※2001年の礼拝メッセージ要約


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