体調が悪かったり、介護が必要だったりして教会に集えない方々のために、毎週の礼拝メッセージの要約の掲載を行っています。教会に行ってみたいけど、いきなり行くのはちょっとな、という方も、ぜひ覗いていってもらえればなと思います。
でもやはり、できることならば教会に来て礼拝にでる方が、メッセージも聞きやすいし恵みも違ってきます。どうしようかなぁと迷っている方、ぜひ一度教会にも来て下さいね!
2009年4月26日
「罪人を招く主イエス」 マルコ2:13−17 金井辰雄先生
イエス様の弟子となったレビは、仲間を家に呼んでパ−ティ−を開き、そこでイエス様を紹介しました。律法学者やパリサイ人は、イエス様と弟子たちの行動が理解出来ず「なぜあの人は収税人や罪人たちと一緒に食事までするのか」と弟子たちに尋ねました。そこで、イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」V=17と答えました。 人は眠っている罪人か目覚めた罪人のいずれかだと言われます。「義人はいない。ひとりもいない。」(ロ−マ3:10)とある通り。すべての人は、キリストの救いに招かれています。しかし、その事実に気づかないならば、キリストと関係を持ち、キリストとともに食事につくこともないのです。(黙示3:20)
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」 マルコ2:17
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2009年4月19日
「真実に生きるユダ」 創世記44:1〜34 金井つる先生
再びエジプトへ食料を求めて出かけた兄弟たちは、何の問題も起きなかったことを喜び帰路につきました。しかし、その道中で絶体絶命のピンチに陥りました。この章では、ヨセフの兄弟たちの劇的な変化が語られています。試みられた兄弟たちは、全員で町に引き返し、「神がしもべどもの咎をあばかれたのです。」と言います。銀の杯を通して、深い罪の自覚へと導かれました。また、ユダの弁明は力強く、率直で事実でした。兄弟たちの罪の自覚と悔い改めが祝福の扉を開ける鍵となり、やがて神の栄光を拝することになります。私たちも悔い改めが必要なときには悔い改め、ユダのように真実に生きましょう。
「ユダが答えた。『私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。』」 創世記44:16
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2009年4月12日
「よみがえったイエス様」 ルカ24:1−12 金井辰雄先生
本日の礼拝は、キリストの復活を記念して祝う(イ−スタ−)礼拝です。教会学校では、昨日イ−スタ−・エッグ作りをしました。固い殻を破って新しい生命が出てくるように、キリストが死の壁を打ち破って復活したことを連想させます。聖書には、イエス様が十字架の上で、私たちの罪を身代わりに負って死んでくださっただけでなく、3日目に死を打ち破って復活してくださったと教えています。本当にイエス様が復活されたのでしょうか? そして、イエス様が復活されたことは、私たちにとってどんな意味があるのでしょうか?イエス・キリストの復活は、 T.イエスが神であったことを示しています。U.私たちの救いが確かであることを保証します。 V.私たちに希望を与えてくれます。あなたは、この素晴らしいイエス様の復活を信じていますか。
「 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」 (ルカ24:6)
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2009年4月12日
「不当な苦しみにも耐える」 Tペテロ2:18-25 岡部高明先生
Tペテロ2:18の「しもべ」は家庭奴隷(オイケテース)で、一般の奴隷(ドゥロス)よりも待遇が良く、教養のある者も少なくなかったようです。しかし、奴隷には社会的権利は何も与えられず物として扱われていました。初代教会では奴隷も多く、信仰面では奴隷と主人の立場が逆転するようなこともありました。聖書が奴隷に対して主人への服従を強調することは奴隷制度を肯定しているようにもとれますが、当時の政治・社会状況において奴隷制度撤廃の機が熟していなかったことと、信仰的に人間関係の内的変革に重点を置いていたことによるものです。不当な苦しみにも耐えて罪人の贖いを完成されたキリストに倣って生きることは神を喜ばせ、贖い主を指し示す道でもあるのです。
「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(Tペテロ2:19-21)
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2009年4月5日
「神の不思議な導き」 使徒の働き8:26−40 金井辰雄先生
ピリポは聖霊に導かれ、荒野でエチオピヤの宦官に出会い伝道しました。これは、ユダヤ人が異邦人に福音を伝えた初めての出来事でした。福音がユダヤを越え、サマリヤ、更には地の果てにいる異邦人にまで流れ始めたのです。ここで、私たちは、聖霊様が積極的に、そして具体的に聖徒たちを通して働かれることを確認することが出来ます。私たちも信仰に至った過程を振り返って見ると、きっとそこに神の不思議な導きがあったことを見いだすことでしょう。今も神は、すべての人が救われるために、ピリポのような人を求めています。ピリポは、福音を伝えるためならば、御霊の導きに従いどこまでも出て行く人でした。 あなたは、どうですか?
「すると、その人は、『導く人がなければ、どうしてわかりましょう』と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。」 使徒の働き8:31
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