トップページメッセージ集 > 2008年6月

メッセージ集:2008年6月

☆

体調が悪かったり、介護が必要だったりして教会に集えない方々のために、毎週の礼拝メッセージの要約の掲載を行っています。教会に行ってみたいけど、いきなり行くのはちょっとな、という方も、ぜひ覗いていってもらえればなと思います。

でもやはり、できることならば教会に来て礼拝にでる方が、メッセージも聞きやすいし恵みも違ってきます。どうしようかなぁと迷っている方、ぜひ一度教会にも来て下さいね!

◇メッセージ集メインに戻る


2008年6月29日

「どんな境遇にも対処する秘訣」 ピリピ4:8〜13 舘野克己先生

毎日の生活の中で、私たちに届けられる大量のニュースは、時として愕然とさせられるものもあるが、いつしかそれらも記憶の外に投げやられ、凶悪事件にも慣れてさえしまう。モラルの低下は危険の増加につながっていく。そんな時代に生きる者に、パウロのことばはどのように理解され、適用できるだろうか。「あらゆる境遇」に含まれないものはない。私たちの信じている神は、私たちに対してどういうことを日々してくださるのであろうか。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」 ピリピ4:13

* * *

2008年6月29日

「死者の復活がないのなら」 Tコリント15:29−34 岡部高明先生

パウロはコリント第一15:29-34において、コリント教会の人々やパウロ自身の経験から死者の復活を否定することが、いかに根拠がなく、またいかに恐ろしい影響をもたらすかを示して警告しています。「死者のゆえのバプテスマ」については多くの解釈があり難解ですが、彼らが行っていることは死者の復活を否定する前提とは矛盾していることになります。死者の復活がないなら死に直面しながら福音宣教をすることは無意味と言わざるを得ないでしょう。一方、復活を否定するなら「どうせ明日は死ぬのだから」として罪深い、刹那的、快楽的、逃避的な生き方に陥ってしまいます。神についての正しい知識を持たない人々との交わりや会話(カルビン)に毒されないように注意して、目を覚まして、正しい生活を送りましょう。

「もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」 Tコリント15:32、33

* * *

2008年6月22日

「もう一度神様の恵みからはじめよう」 エペソ2:1−10 矢野譲先生

救われるために必要なもの、それは恵み。恵みで始まったクリスチャンライフなのに、自分で規則を作り、それにしばられて喜べなくなっていませんか? 良いクリスチャンならこうするはず、できるはず。それができない私は、神様の恵みを受ける価値がないのでは?救われていないのでは?と思っていませんか。さあもう一度神様の恵みから始めましょう。私たちのゴ−ルは良いクリスチャンになることではなく、救われた喜びに満たされたクリスチャンとして、神様の素晴らしさを現すことです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」 エペソ2:8

* * *

2008年6月15日

「わたしを顧みられる神」 創世記16:1−16 金井辰雄先生

16章は、神様の約束の成就を長い間待ち続けている時に、アブラムの家庭に起こった試みについて記されています。アブラムに神様の約束が示されて、10年が経過しました。 しかし、約束の男の子が産まれる気配はなく、アブラムの心は疲れていました。そして、ついにサライの提案を受け入れ、ハガルによって子どもをもうけます。しかし、このことはサライ とハガルの関係をギクシャクさせ、アブラムも巻き込みます。とうとう耐えきれなくなったハガルは、主人のもとから逃げ出します。神様は、ハガルのもとに御使いを送り、「もとの女主人のもとへ帰り、身を低くして仕えるように」と諭し、ハガルの子孫への祝福を与えられました。このようにしてハガルは、再び現実に戻って行くことが出来ました。苦しみから逃れさせてくれる宗教は沢山あります。苦しみを避け、安全で都合のいい生き方を求めやすいのが私たちです。しかし、行き詰まりは、それまでの私たちの生き方や考え方を修正する機会なのです。苦しみや問題を取り除くことではないのです。 

「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です』と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。」 創世記16:13  (共同訳聖書)

* * *

2008年6月15日

「神の優しさと力あることば」 ルカ17:11−17 金井つる先生

イエス様と弟子たちは、ナインという町に行かれました。門のところで、やもめとなった母親の一人息子が死んで担ぎ出されるところに来合わせました。愛する息子を失い、どうすることも出来ない現実の前に、この母親は泣いていました。イエス様はこの母親を一目見て全てを理解し「泣かなくてもよい」と言われました。そして、その涙の源を解決してくださいました。イエス様が近づいてくださって、その問題に触れてくださったのです。主は今も、あなたのそばに来たいと願っておられます。イエス様に触れていただきましょう。

「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた。」  ルカ7:13

* * *

2008年6月8日

「求めなさい」 ルカ11:5−13 金井辰雄先生

イエス様は、私たちに「求めなさい」と言われました。それは、私たちが福音宣教の使命に生きていく時に、どうしても神の知恵や聖霊の助けが必要だからです。天の父なる神様は、私たちを子として取り扱い最高の良いものを与えてくださるお方です。 その一番の賜物は、聖霊様です。自分では気づいていないかも知れませんが、イエス様を信じるためにも、聖書を理解するためにも、自分の罪を認めるためにも、祈り続けることが出来るためにも、信仰が成長するためにも、全て聖霊様の働きが必要です。その聖霊様が私たちの内に永遠に住んでくださり、私たちと共に歩んでくださるとは、何と素晴らしい恵みでしょうか。あなたは、日々聖霊様により頼んで歩んでいますか。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」    マタイ7:7

* * *

2008年6月8日

「眠った者の初穂としての復活」 Tコリント15:21−28 岡部高明先生

死者の復活を否定することは、イエス・キリストの復活の否定、福音の否定、救いの否定、希望の否定につながります。しかし、キリストは眠った者(キリストに属する者として死を迎えた方)の初穂(最初の実で、残りの収穫の見本)として復活されました。この世界に死が入ってきたのは最初の人アダムの堕罪によるものですが、もうひとりのアダムであるイエス・キリストによって罪の赦しと永遠のいのちへの道が開かれました(ローマ5:12-21)。キリスト者の復活はキリストの再臨のときに実現されます。キリストは最後の敵である死を滅ぼし、万物の支配権を父なる神にお渡しになり、こうしてキリストによる救いの計画は完成する(終わる)のです。

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」Tコリント15:20-22

* * *

2008年6月1日

「御霊が話させてくださるとおりに」 使徒2:1−13 金井辰雄先生

地上に教会が誕生するにあたり、3つの要素があったことを使徒の働き2章は教えています。それは、聖霊の降臨、ペテロの説教、回心した人々です。ペンテコステの出来事は、人類が初めて経験する聖霊の新しい恵みの幕開けを意味します。神は、これに3つの特別のしるし、「風」「炎」「他国のことば」をもって臨まれました。聖霊が来られた最大の目的は、私たちが「主の証人となるため」(1:8)です。だれでも聖霊に満たされると、イエス様を恐れずに証しすることが出来るようになります。私たちの国は、相変わらず自己中心、お金や物への執着、他者への無関心、いじめ、人の命の軽視、性的堕落といった罪の現実はエスカレ−トするばかりです。これは多くの人々が真理に飢え渇いた魂を抱えたまま迷い続けていることの表れです。私たちが人への恐れや妥協からイエス・キリストにある恵みを語ろうとしないなら、人々はますます迷いの世界に、サタンの罠に陥ってしまうのです。

「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」 使徒2:4


◇過去の礼拝メッセージ要約

※2008年5月の礼拝メッセージ要約
※2008年4月の礼拝メッセージ要約

※2003年の礼拝メッセージ要約
※2002年の礼拝メッセージ要約
※2001年の礼拝メッセージ要約


◇メッセージ集メインに戻る

◇トップページに戻る