体調が悪かったり、介護が必要だったりして教会に集えない方々のために、毎週の礼拝メッセージの要約の掲載を行っています。教会に行ってみたいけど、いきなり行くのはちょっとな、という方も、ぜひ覗いていってもらえればなと思います。
でもやはり、できることならば教会に来て礼拝にでる方が、メッセージも聞きやすいし恵みも違ってきます。どうしようかなぁと迷っている方、ぜひ一度教会にも来て下さいね!
2011年9月25日
「神の愛とは」 ヨハネ3:16 金井辰雄先生
人間は、生まれて死ぬまでに多くの人々の愛を必要とします。しかし、現実には愛ではなく、傷つけられたり、裏切られるという経験をするのです。ですから私たちは、もっと大切な神の愛を知る必要があります。その神の愛を知ることから、お互いが真に愛し合って生かされる世界が生まれるからです。 神が世(私)を救うために、イエス・キリストを送られた動機は、愛です。神の愛は表面的な概念にとどまる愛ではありません。たったひとり子の御子を送られ、十字架につけるという具体的な行動によって、その愛を示されたのです。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
ロ−マ5:8 私たちが神の犠牲を深く覚える時、私たちの犯した罪の深さと永遠の命の驚くべき感動を知ることが出来るのです。
<聖書引用箇所> ヨハネ15:13、 創世記22章、ルカ23:47,ロ−マ5:8
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 ヨハネ3:16
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2011年9月25日
「熱心に求める」 ルカ11:5〜13 金井つる先生
神さまは、いつも良いものを与えて下さる素晴らしいお方です。その神さまに私たちは、本気で祈り求めているでしょうか? どこか中途半端なところで、あきらめ、失望し、忘れてしまった、ということはないでしょうか? 今日の個所から求め続けること、祈り続けることの素晴らしさを学びたいと思います。
1、真夜中にパンを借りに行った人 1)神から授かる迷惑。突然の訪問客のために、彼は友にパンを借りに行きます。この友を神が私のところに向けられた人として、受け止めました。
2)友人への愛から生まれた祈り。この人のために、○○をしてあげたいけれど、私には出来ないので神さま助けて下さい。という愛の不足感をもった祈り。
3)求め続ける。継続して祈る。黙り込んではならない。
2、祈りに答えて下さる神さま クリスチャンは神さまの助けなしに、主の弟子の道を歩むことはできません。主は聖霊を与えて下さいました。 1)聖霊は助け主である。
2)聖霊は力を与えて下さる。 3)聖霊は導かれる。聖霊を慕い求めつつ、聖霊に導かれて歩みましょう。
<聖書引用箇所> イザヤ62:6、イザヤ62:1、ヨハネ14:26、使徒1:8、使徒11:12
「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 ルカ11:9
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2011年9月18日
「キリスト信仰に生きよう」 マルコ8:27−33 矢代博常先生
信仰告白で最も簡潔なものは「イエスはキリスト(メシヤ)です」と言うもの。メシヤは名前でなく職務・肩書きである。この告白はイエスにより認知された。旧約に預言されたメシヤは「受難の僕」と「栄光の王」の二つのメシヤ観があった。イエスの時代はイスラエル国家はなく、ローマ帝国の支配下にある属国であったので、民衆は「栄光の王」としてのメシヤの来臨を切望していた。そのメシヤは「ダビデの子」とも呼ばれていた。ダビデ王様のイスラエル国家を再興する方と見られていた。そのために弟子たちも同胞も「受難の僕」としてのメシヤを誤解し無関心だった。神の救いのご計画では、メシヤは先ず受難の僕として現れ、次に栄光の王として現れるというものであった。
「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」 マルコ8:31
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2011年9月11日
「金持ちとラザロ」 ルカ16:19−31 金井辰雄先生
不正な管理人のたとえ話を聞いたパリサイ人たちは、イエスをあざ笑いました。律法の厳守をもって、自分は模範的な宗教家だと自負しながら、一方で金を愛する世俗的な人間でもあったからです。そこでイエスは、ひとつのたとえ話をされました。ある金持ちが毎日贅沢に暮らしていました。貧しいラザロは、金持ちの家の門の前に横になっていました。やがてラザロは1人静かに死にました。そして、御使いがラザロを天国に連れて行きました。
ちょうどそのころ金持ちも死にました。さて、死んだ金持ちは、火の燃える苦しみの場所に移されました。そこで、後悔しましたが手遅れでした。金持ちは生きている間は、神様を信じないで好き勝手に暮らしていました。それで、死んだ後は、神様から遠く離れた場所に行くことになったのです。ラザロは、生きている時はつらい思いをしましたが、神様を信じていました。それで、神様のおられる天国に連れて行かれたのです。あなたは、主イエス様の警告にどう応答しますか。
是非、悔いのない人生に向かうために、聖書に示された神の愛と救いを素直に信じ、主イエス様の教えに従ってまいりましょう。
<聖書引用箇所> ヘブル9:27、Uコリント5:10、黙示録21:8、マタイ5:7
「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」 ヘブル3:13
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2011年9月11日
「忠実な賢い管理人とは」 ルカ12:35-48 岡部高明先生
「愚かな金持ちのたとえ」(ルカ12:16-21)を通して、永続することのないもののために人生のすべてを賭けることの愚かさを教えられた主は、「いのち」と「からだ」を与えて下さった父なる神に信頼すること、神の国を求め、永遠に存続するもののために働く(天に宝を積む)ことを勧められました(ルカ12:22-34)。今回は「注意深いしもべ」(ルカ12:35-40)と「忠実なしもべ、不忠実なしもべ」(ルカ12:41-48)のたとえから、再臨の主を待ち望む私たちの心構えと、主から託された賜物や役割に対して求められる忠実さについて学びましょう。
「主は言われた。『では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。 』」 ルカ12:42,43
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2011年9月4日
「繰り返された失敗」 創世記20:1−18 金井辰雄先生
アブラハムは、信仰の父と言われますが、彼の生涯を学ぶ時に、信仰について多くのことを教えられます。信仰の父と言えど、私たちと特別に違う人ではありません。しかし、神様の豊かなお取り扱いの中で、彼が徐々に信仰の人へと変えられて行くのです。アブラハムは、支配者に妻を奪われ、自分は殺されるかも知れないという恐れに二度も屈しました。(創世記12章11-20) 彼は、サラのことを妹と言ってパロ王とアビメレク王をだましたのです。相手を恐れて真実を言わないことは、
自分自身、そして関係者をも罪の危険にさらすことになります。私たちも多くの失敗をしますが、問題はその失敗の中で何を学ぶかです。失敗の中で自分の弱さと不信仰を徹底的に示され、悔い改めない限り、再三同じ過ちを繰り返すものです。恐れは、信仰と深く関係しています。
私たちのうちに、うそやごまかしがないか調べて、罪を犯さないように守ってくださるよう祈りましょう。
<聖書引用箇所> 創世記35:1−5、箴言29:25、マタイ10:28−31、ロ−マ2:14−15
「アブラハムは答えた。『この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。』」 創世記20:11
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