体調が悪かったり、介護が必要だったりして教会に集えない方々のために、毎週の礼拝メッセージの要約の掲載を行っています。教会に行ってみたいけど、いきなり行くのはちょっとな、という方も、ぜひ覗いていってもらえればなと思います。
でもやはり、できることならば教会に来て礼拝にでる方が、メッセージも聞きやすいし恵みも違ってきます。どうしようかなぁと迷っている方、ぜひ一度教会にも来て下さいね!
2009年8月30日
「御名が崇められますように」 マタイ6:9−10 矢野譲先生
イエス様を私の人生の主として心の内にお迎えし、天のお父様との本来の交わりが回復されて以来、自らのクリスチャンとしての生活の中で願ってきたことは「御名が崇められますように」ということです。今朝は、自分の歩みと奉仕の中で、人々との交わりの中で、教会を通して「御名が崇められますように」ということを分かち合わせて頂きます。神様の祝福を祈りながら。
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」 エペソ1:23
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2009年8月30日
「口の言葉と心の思い」 詩篇19:1〜14 岡部ルツ子先生
私たちが毎週礼拝に出席し集会を守り個人的にも聖書を学ぶのは何のためでしょう。 @たましいを生き返らせ、Aわきまえのない者を賢くする、B人の心を喜ばせ、C人の目を明るくするのです。7〜8節にある「みおしえ」「あかし」「戒め」「仰せ」はすべて律法を表わしています。そしてその律法は「完全で」「確かで」「正しくて」「きよい」ものなのです。それによってたましい(私たち)は生き生きと生命にあふれ、勇気と活力をもって生きることができるのです。隠れている私たちの罪、故意罪(大きな罪)を赦されて心をこめて神への献身を表わすのです。口のことばと心の思いは、神への捧げ物として、神に喜ばれるようになりますようにというのが記者の願い、祈りなのです。
「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」 詩篇19:14
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2009年8月23日
「御顔を避ける人」 ヨナ1:1−17 金井辰雄先生
ヨナは、ニネベの伝道の使命が与えられましたが主の御顔を避けタルシシュに逃げようとしました。理由は、神の憐れみによってニネベの人々が悔い改めて、神の祝福を受けることが嫌だったからです。逃げるヨナに、主は大嵐をもって追跡します。それは、ヨナを罰するためではなく、ヨナを信仰と奉仕の道に立ち直らせるための愛の嵐でした。ヨナは、自分の不信仰が乗船仲間の迷惑になったことを知り、自分を海に投げ込むように申し出ました。不従順な生き方は、周りの人々にも悪影響を与えます。人々は、躊躇しつつ、ヨナを海に投げ込みます。主は、ヨナが主の期待を裏切ったにも関わらず、ヨナの信仰も人格も育てようとされました。この神の忍耐と寛容を思うとき、自分が人に向けている寛容と赦しについても考えてみましょう。
「しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。」 ヨナ1:3
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2009年8月16日
「人の最善と神の最善」 マルコ5:21−43 金井つる先生
“人生は出会いで決まる”とよく言われます。私たちは生まれてから死ぬまでの間に、実に多くの人と出会います。素晴らしい人との出会いは、人生を高めてくれます。なかでもイエス様との出会いは最高です。今日は、イエス様に信仰を持って近づいた二人の人から学びたいと思います。 1.信仰は「我は信ず」であって、神との1対1の関係です。 2.単純に、純粋に信じることが大切です。 3.深められていく信仰へと招かれています。人の願いの最善から、神の備えておられる最善へと、霊の目を開いて頂きましょう。
「イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。『「恐れないで、ただ信じていなさい。』」 マルコ5:36
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2009年8月9日
「サムソン」 士師記16:15−31 金井辰雄先生
サムソンは、生まれつきのナジル人として神にささげられた生涯を送ることが期待されていました。しかし、力ある業はともかく人格面に於いて神の期待に反していました。そのために、ついに敵の手に落ちて、悲惨な結果を迎えますが、人生の試練が彼に悔い改めの機会を与え、最後の瞬間に神に立ち帰り、もう一度神に用いられました。私たちクリスチャンにも聖霊が与えられていますが、それは神様のみこころを行うため、福音を宣べ伝えるためです。そのことによって罪とサタンの支配にある者を救い出させるためなのです。聖霊の力を失ったサムソンとは、実は“この私なのだ”と気付かされたのなら、神の前の祈りの場に行きましょう。サムソンの祈りを聞いて、再び力といのちを回復してくださった神様は、私たちにもそのようにしてくださるのです。
「サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」 士師記16:28
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2009年8月9日
「よみにくだり、復活し、天にのぼられた主」 Tペテロ3:18-22 岡部高明先生
主キリストは、私たちを神のみもとに導くため人としての地上生涯(肉)において身代わりとして死なれました。しかし、主は霊(の領域)において生かされて「捕らわれの霊たちのところに行ってみことば」を宣言されました(3:19)。これは使徒信条の「よみにくだり」の根拠となる聖句の一つです。主は「よみ」(死者の領域)から栄光のからだで「よみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座し」ておられます。ノアなど8人は神に従って造った箱舟で大洪水から救われました。これは、復活された主に従う「正しい良心の誓い(応答)」としてのバプテスマによる救いの予型でもあるのです(ヘブル11:7)。
「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」 Tペテロ 3:21b、22
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2009年8月2日
「ともにおられる神」 出エジプト記3:1−12 中川信嗣先生
「私たちは何者なのか」ということについて、モーセの召命の出来事に目をとめます。モーセとは何者だったのかというならば、「神様がともにおられた存在」でした。この事実は決してモーセだけのことではなく、私たちにとっても、同じように、私が何者なのかということの答えです。モーセが神様からその働きに遣わされる前に、まず確認した「私は、神様がともにいる存在である」という約束を、私たちも同様に、私たちの遣わされている場所、働きに出ていく前に、まず確認する必要があります。この約束がどんな状況にあっても決して変わることがないということに堅く立ち、それぞれのところに遣わされていきましょう。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」 イザヤ41:10
◇過去の礼拝メッセージ要約
※2009年の礼拝メッセージ要約
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
※2008年の礼拝メッセージ要約
4月
5月
6月
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8月
9月
10月
11月
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※2003年の礼拝メッセージ要約
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