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メッセージ集:2011年5月

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体調が悪かったり、介護が必要だったりして教会に集えない方々のために、毎週の礼拝メッセージの要約の掲載を行っています。教会に行ってみたいけど、いきなり行くのはちょっとな、という方も、ぜひ覗いていってもらえればなと思います。

でもやはり、できることならば教会に来て礼拝にでる方が、メッセージも聞きやすいし恵みも違ってきます。どうしようかなぁと迷っている方、ぜひ一度教会にも来て下さいね!

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2011年5月29日

「何故被災地の人々に仕えるのか」 Tコリント12:26〜27/ルカ10:25〜37 吉田孝先生

Tコリント12章12節から使徒パウロはキリストの体なる教会は一つである事を述べています。キリストは聖書の示すとおりに、私達の罪の為に死なれたこと、また葬られたこと、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたことを信じたら罪の赦しと新しい命にあずかります。そして信じた時に聖霊によってバプテスマされキリストの一つ体に連なり教会の一員にされるのです。私達はこの点を読み違えてはならないのです。聖書のみことばを信じている教会は一つなのです。
 教派、教団、人種、国籍、肌の色、気質、教養、社会的地位、言語が違っていてもキリストを主と告白する教会は本質的には一つです。これがはっきりしないと他の教派やクリスチャンを裁くのです。もう一度自分の心を点検してまいりましょう。

「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」   Tコリント12:26

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2011年5月22日

「よくなりたいか」 ヨハネ5:1−18 金井辰雄先生

エルサレムに上って行かれたイエス様は、ベテスダの池で38年間病気にかかっている人に会いました。イエス様は、彼に近づいて「良くなりたいか」と尋ねられました。この“良くなりたいか”という問いかけは、“良くなりたい”という願いや意志を取り戻すための起死回生のことばです。私たちにとって、悪い状態から抜け出たり、苦難を乗り越えたりするために最も大切なことは、あきらめずに本気で良くなりたいという意志を取り戻すことです。そして、その人に「床をたたんで歩け」と命じると、38年間も彼を苦しめていた病気がたちどころに癒されたのです。その後の展開で、彼の病気の直接の原因が罪にあったことが暗示されます。イエス様は、その人の身体の病気を癒されたというだけでなく、心と魂にも目を留めて、罪からも救って下さったのです。 私たちの身体も心も癒す権威を持っておられるのは、主イエス様ただお一人だけです。私たちの人生に意味と価値を与え、私たちを生かし内側から新しくして下さるのは、イエス様だけなのです。

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』」 ヨハネ5:6

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2011年5月15日

「主に何を注ぎますか」 マルコ14:3−9 金井つる先生

過越の祭りが近づき、イエス様と弟子達はシモンの家に落ち着きました。このシモンの家で、一つの非常に美しい出来事が起きました。一人の女の人が純粋で非常に高価なナルドの香油を、イエス様に注ぎかけたのでした。
1.マリヤはイエス様に、犠牲をともなう愛を注いだ
彼女にとって宝中の宝であったと思われる香油を惜しまず、むしろ喜んでささげました。
2.マリヤはイエス様に、信頼の心を注いだ
彼女はこの時、この行為が良いとか悪いとか、貧しい人に施しが出来るとか出来ないとか、老後の生活は大丈夫だろうか、などとは考えませんでした。主に信頼して注ぎました。
3.イエス様と弟子達の評価の違い
弟子達はこの女の人の行為に憤慨し、厳しく責めました。しかし、主は立派なことと評価してくださり、永遠の記念とされました。真実の愛は、その時には人々に理解されなくても、やがて理解される時が来るものです。失望せずに希望を持って、主に良きものを注ぎましょう。

「すると、イエスは言われた。『そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。』」  マルコ14:6

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2011年5月8日

「本当の幸せ」 マタイ4:23−5:12 金井辰雄先生

イエス様は、「幸福」について語りました。人は、だれでも「幸せ」を求めていますが、本当の幸せとは何なのか分からないからです。主は「心の貧しい人は、幸いです。」と言われました。“幸せ”と訳されていることばは、“マカリオイ”という語です。それは、単に物事が思い通りになるということではなく、“神に祝福されている”状態を言います。私たちは、自分を創造された神を離れては本当の意味で幸せにはなれないからです。神だけが私たちを知り、私たちの真の満足と喜び、平安を与えることができるのです。“貧しい”と訳されたことばは、“物乞いをする”という意味です。私たちは、みな自尊心を持っているので、神に頼らなくても自分の力で生きて行けると考えます。しかし、人間の力には、限界があります。それを認め、全能なる神に頼るのが心の貧しいという意味です。天国は、神の前の自分の貧しさ知り、心砕かれた謙遜な人に与えられるものなのです。ですから、神が共にいて下さる人こそ真に幸せなのです。

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」 マタイ5:8

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2011年5月8日

「畑の毒麦のたとえ」 マタイ13:24-30,36-43 岡部高明先生

インドでは敵に言い渡す脅し文句に「お前の畑に悪い種を蒔くぞ」という言葉があるそうです。主イエスが語られた「畑の毒麦のたとえ」では、この世界に置かれた神の子どもたちの霊的成長と福音宣教を妨害する悪魔の挑戦とそれに対する終末的な神の審判について教えています。悪魔は生来の人々に働きかけて、さまざまな悪、低級な娯楽、社交上の悪、政治上の悪など不信仰と不敬虔の種をまき散らしています。主イエスによって蒔かれた良い種と悪魔が蒔いた毒麦との混合状態は世の終りまで続きますが、収穫の主が正しく分離してくださる父の御国を待ち望みつつ良い実を結び続けましょう。

「人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」  マタイ13:41-43

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2011年5月1日

「神の家からの新たな出発」 創世記28:10−22 金井辰雄先生

ヤコブは、生まれ故郷を離れて遠い地に旅立ちました。生まれ故郷を離れるということは、神の救いを経験するための一つの型となっています。人は一つのところに住み着くことによって、そこに自分の城を築きます。自分の生活、習慣、地位、特権等。ですから、そこを離れると言うことは、これまでに築き上げてきたものを捨てることを意味します。自分がより頼んでいた全てのものを奪われたとき、ヤコブは初めて自分自身と直面させられました。ヤコブは、不思議な“はしご”の夢を見ました。それは、ヤコブに対する神の啓示であり、一方的な神の恵みによる救いでした。父母を離れて自分は一人ぼっちだと思い、神から捨てられたのではないかと考えていました。しかし、主はヤコブと共にいて下さったのです。ヤコブは、眠りから覚めたとき「こここそ神の家にほかならない。ここは、天の門だ」と言いました。 誰も住んでいないと思われた荒野は、実は「神の家」であったのです。私たちも人生の荒野で人からも神からも、全く見捨てられたように思われるときでも、主だけはあなたと共にいて下さるのです。ヤコブは、そこをベテル「神の家」と呼んで、主を礼拝し、ひとつの決心をしました。神を礼拝する行為は、そのままで終えてしまっては意味がありません。自分自身がどうするのか、どう生きるのか、という決心を伴って初めて礼拝の行為は完成するのです。ヤコブは、神の子供に生まれ変わりここから新たな人生に出発するのです。

「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」 創世記28:15


◇過去の礼拝メッセージ要約

※2011年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月  4月

※2010年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2009年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2008年の礼拝メッセージ要約
 4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2003年の礼拝メッセージ要約
※2002年の礼拝メッセージ要約
※2001年の礼拝メッセージ要約


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