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メッセージ集:2011年7月

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体調が悪かったり、介護が必要だったりして教会に集えない方々のために、毎週の礼拝メッセージの要約の掲載を行っています。教会に行ってみたいけど、いきなり行くのはちょっとな、という方も、ぜひ覗いていってもらえればなと思います。

でもやはり、できることならば教会に来て礼拝にでる方が、メッセージも聞きやすいし恵みも違ってきます。どうしようかなぁと迷っている方、ぜひ一度教会にも来て下さいね!

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2011年7月31日

「試練に会わせられる神」 創世記22:1−14 中川信嗣先生

私たちは人生において、なぜ神様はこんなひどい仕打ちを与えられるのですかということを問うことがあります。創世記二十二章は信仰の父アブラハムの人生の出来事において最大の試練の出来事です。「自分の子をささげなさい」という命令にアブラハムは従い通します。そして、主の山の上には備えがありました。試練の場所には、確かに主の備えがあります。主は試練とともに、確かに脱出の道をも備えて下さるお方なのです。そして、この物語の中には、私たちのための父なる神様が愛する御子を遣わされたこと、また御子イエス様が十字架に至るまで従われたことを思い起こさせます。そしてその愛を、私たちは聖霊なる神様によって知ることができるのです。

「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、『主の山の上には備えがある』と言い伝えられている。」  創世記22:14

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2011年7月24日

「息子を生き返らせた父の愛」 ルカ15:11−32 金井辰雄先生

神の愛をこれほど見事に伝えるたとえはありません。 弟息子は、お父さんから財産を分けてもらって、遠い国に旅立ち、そして、そこで放蕩して財産を使い果たし、人生のどん底を経験します。 しかし、その時、我に返り父のことを思い出します。また、自分の罪にも目覚めるのです。 この惨めな状態の原因が自己中心の罪にあったことを認めます。彼は、乞食同然の姿で父のところに帰って行きます。しかし、彼は、思いがけない父の歓迎を受けます。「私は、天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません」と告白する息子の口を遮るかのように、父はしもべに命じて一番良い着物を着させ、指輪をはめさせ、息子の地位を回復し、子牛を屠って祝宴を始めるのです。「この息子は、死んでいたが生き返った。」と父は、言いますが、息子を生き返らせたのは父の愛だったのです。この父の姿こそ、天の父なる神の姿そのものなのです。全ての人は、神の似姿に造られたため、神の目には尊い存在なのです。正しい人より罪人が神のみもとに立ち返ることが、神にとって最も大きな喜びのなのです。

「そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』  ルカ15:23,24

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2011年7月17日

「主よ、あわれんでください」 マタイ15:21〜28 金井つる先生

人は辛くて苦しい時には謙遜になります。しかし余裕ができ環境が良くなると、謙遜は傲慢へと変わり、感謝は不平へと変わります。愛する娘が悪霊にとりつかれているという危機の中、イエスさまに求めたカナンの女の人の信仰から学びましょう。
1、謙虚な姿勢で神のあわれみを求めた
「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。」神の祝福を受けるに値しない者ですが、どうか助けて下さいと、へりくだって求めました。
2、イエスのことばを素直に受け入れた
一言も答えて下さらない主の前に、ひれ伏して「主よ。私をお助け下さい。」と、どこまでもへりくだる姿勢をくずしませんでした。
3、み言葉に対する霊的理解力
み言葉は正しく理解されなければなりません。

「すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。『主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。』」  マタイ15:22

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2011年7月10日

「アダムとエバ」 創世記1:26−27、2:4−25 金井辰雄先生

現代人は、自分の存在の意味や結婚、家庭、労働とは何かの意味を見失っています。それは、人間の存在に意味を与える創造者なる神に背いたことに原因があります。創世記は人生の根本的な意味について教えています。 人はどのようにして造られたのでしょうか? 神は、土地のちりで人を形造り、鼻に「いのちの息」を吹き込まれ、そして「生きるもの」となった、とあります。神の息を吹き込まれて初めて、人は神と交わりが可能となり、神のみこころを知り、神から受けた使命を果たすことが出来るという意味で“人は生きる者となった”と言うことです。また、人は神との交わりだけでなく、人との交わりもなければ生きて行けません。神は、動物の中には人にふさわしい助け手がないことをアダムに確認させてから、 助け手としての女を造り、彼に与えてくださいました。 神様は、 私たち人間を尊い存在として造ってくださいました。そして、男性も女性も愛と協力を持って神のみこころを実現していくことを願っておられるのです。 一人ひとりがそのような存在であることを覚えて、互いを大切にし、共に主に仕えていく者になりましょう。

「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」 創世記1:27

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2011年7月10日

「真夜中の友人のたとえ」 ルカ11:1-13 岡部高明先生

主イエスは弟子達の求めに従って祈りの模範として「主の祈り」を教え、また「真夜中の友人のたとえ」を用いて祈りの心得も教えて下さいました。私たちの祈りの答が与えられないように思えるときは、心底から熱心に祈り求めているか、神の応答の仕方について理解しているか、天の父なる神に対する信頼を持っているかを確かめてみましょう。神は助けを必要としている私たちの友人への真実の愛にこたえて、私たちの求め以上の良き物を備えて下さるのです。具体的な答の遅延や有無のなかに天の父なる神の慈愛と英知が示されていることを信じて祈り続けましょう。私たちには、助けを求めている友人と、私たちのとりなしに答えて下さる豊かな友(天の父)が与えられているのです。

「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」   ルカ11:8

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2011年7月3日

「御霊に満たされなさい」 エペソ5:15−20 岡部高明先生

「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」との命令は「真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押され」た(エペソ1:13)すべてのクリスチャンに向けられています。聖霊は酒のような液体でも単なる影響力でもありません。三位一体の神の位格をもつお方ですから「御霊に満たされる」とは、私たちの全人格−知性と感情と意志−が聖霊の影響下にあること、聖霊のコントロール下に置かれることを示しています。聖霊こそいのちと喜びと力の源泉です。聖霊を悲しませないようにしましょう(エペソ4:30)。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。(エペソ5:18−20)


◇過去の礼拝メッセージ要約

※2011年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月  4月  5月  6月

※2010年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2009年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2008年の礼拝メッセージ要約
 4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2003年の礼拝メッセージ要約
※2002年の礼拝メッセージ要約
※2001年の礼拝メッセージ要約


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