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メッセージ集:2010年9月

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体調が悪かったり、介護が必要だったりして教会に集えない方々のために、毎週の礼拝メッセージの要約の掲載を行っています。教会に行ってみたいけど、いきなり行くのはちょっとな、という方も、ぜひ覗いていってもらえればなと思います。

でもやはり、できることならば教会に来て礼拝にでる方が、メッセージも聞きやすいし恵みも違ってきます。どうしようかなぁと迷っている方、ぜひ一度教会にも来て下さいね!

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2010年9月26日

「神の愛とは」 ヨハネ3:16−21 金井辰雄先生

16節のみことば、聖書の中心メッセ−ジを完全に要約して神の愛を語っています。では、その神の愛とは、どのようなものなのでしょうか。
T.犠牲的な愛(痛みの伴った愛)
「神は、そのひとり子イエス・キリストをお与えになったほどに世を愛された。」とあります。 これ以上の大きな犠牲、痛みを伴う愛が他にあるでしょうか。
U.真実な愛
しかし、いかに大きな犠牲や痛みを伴う愛であっても、見返りや下心があればその愛は純粋とは言えません。愛というものは、最終的に真実さを求めるものだからです。
V.変わらない愛
いかに大きな愛、真実な愛であっても、人間の心のように気まぐれで変わってしまうなら安心はできません。 しかし、神の愛は、永遠に変わることはないのです。 神は、人を愛され、ひとり子を遣わしてくださいました。人々がさばきを逃れて救いを得ることが出来るようにされたのです。
あなたも、この神の愛を受け入れ救われてください。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」  ヨハネ3:16

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2010年9月26日

「主は生きておられる」 T列王記17:1−16 金井つる先生

アハブの治世は、霊的に暗黒の時代でした。この時、神様に召されて立ち上がったのが、神の人エリヤでした。彼のただ一つの願いは、民が真の神に立ち返ることでした。
1.生きて働かれる神
「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。」 この宣言をもって、彼はアハブ王の前に立ちました。
2.エリヤを導かれる神
神様は、エリヤを人里離れたところに導かれました。いったん退いて、前進するように導かれたのです。そして、一歩一歩神の備えのあるところへ導かれました。
3.やもめにエリヤを通して語られる神
厳しい状況にあるやもめに対して、「恐れてはいけません。まず、私のために・・」と信仰を求められました。かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない。真の供給は神ご自身です。信じて従う時に、私たちは神の栄光を体験することが出来るのです。

「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」  T列王記17:1

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2010年9月19日

「何も心配しないで」 マタイ6:25−34 金井つる先生

私たちにとって経済生活の問題は、とても身近でしかも重要です。イエス様は、富を地上に蓄えるのはやめなさい、と言われました。私たちは富に対してどのように考え、どのような態度を取るべきなのでしょうか。
T.神様は私たちの必要を知っておられ養ってくださる。
神様は、決して物質的な必要を軽視したり、無視したりなさいません。責任をもって養ってくださいます。
U.心配しても問題は解決しない。
イエス様は、心配することを戒められました。何故なら心配は私たちを捕らえ、自由を奪い、私たちをがんじがらめにしてしまうからです。
V.神の国とその義を第一に求めなさい。
祝福はここから始まります。心配や不安に対する処方箋は、何にもまさって、まず第一に神の国とその義を求めることです。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」 マタイ6:33

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2010年9月12日

「人を赦す」 マタイ18:21−35 金井辰雄先生

18章では、まず謙遜さが教えられています。クリスチャンは、必ず謙遜を学ぶ課程を通らされます。続いて、赦しについて、教えられています。赦すことは、謙遜に物事を考えられるような成熟した心がなくては出来ないからです。 ペテロがイエス様に質問しました。「だれかが私に罪を犯したとき、何度まで赦せば良いでしょうか。七度までですか。」  当時ユダヤ教の考えでは、赦しは三度までで、四度目からは赦されないとされていたので、「七度まで」と言ったペテロは、相当な忍耐と寛容を示したつもりでした。ところが、イエス様のお答えは、「七度を七十倍するまでと言います。」でした。驚くペテロに、イエス様は、たとえ話をされました。一万タラントの負債を赦されたしもべが、同じしもべ仲間の百デナリの借りを赦さなかったので、王様は大変怒りました。王は、「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」とあわれむことを願われたのです。 赦されようのない罪を神様に赦して頂いたということが、クリスチャンが人を赦す際の原動力なのです。この自覚なしに、罪人である私たちのうちに、人を赦そうとする思いは沸き上がらないからです。

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」 エペソ4:32

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2010年9月12日

「神のさばきと救いの実例」 Uペテロ2:4-10a 岡部高明先生

ペテロは、主を否定するにせ教師たちに対する神のさばきがいかに確実で徹底的なものであるかを、神に反抗した御使いに対するさばき、暴虐と不道徳の世界に対する洪水によるさばき、無節操で不法な行いに満ちたソドムとゴモラの町に対する火によるさばきの実例を挙げて述べています。と同時に、罪に対する厳しいさばきの下にあっても、神のみこころにかなったノアとその家族、誘惑に悩まされながら日々正しい心を痛めていたロトが救い出されたことを通して、神のさばきの厳粛さと神の憐れみの確かさを教えています。

「というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」  Uペテロ2:8,9

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2010年9月5日

「恐れずに福音をのべ伝える者を祝福される」 使徒19:1-22 金井辰雄先生

パウロがエペソに着いて弟子達に会ってみると、その信仰が不足している者がいることに気づきました。イエス様を信じていても、聖霊を受けていないと言うことは、その信仰が完全でないと言う証拠です。 聖霊の御業がなければ、イエスを主であると告白出来ないからです。(Tコリント12:3) パウロは、 彼らにヨハネが語った方がイエスであることを教え、イエスの御名によってバプテスマを授け、鞍手しました。すると、彼らにもペンテコステの時の聖霊の御業が現れて、彼らの口からも異言と預言があふれでました。 力ある人生、信仰の人生を生きるためには、必ず聖霊に満たされなければならないのです。 パウロは、ツラノの講堂を借りて、2年間、福音を伝えました。その結果、多くの人々がイエス・キリストを信じて神に立ち返りました。パウロは、聖霊に導かれてエペソを離れることを決心し、新しい伝道旅行を計画します。マケドニヤを回ってエルサレムに行き、ロ−マを最終的な目的地とした旅行でした。 この時、50代半ばであったと思われます。 若くもない歳に、安定したエペソでの働きを手放して、未知の地へと旅立つ計画を立てることは、決して容易ではありません。しかし、パウロの伝道の情熱は、静まることがありませんでした。その情熱の火が今も私たちの中にめらめらと燃え上がるべきなのです。

「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」  使徒19:20


◇過去の礼拝メッセージ要約

※2010年の礼拝メッセージ要約
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※2009年の礼拝メッセージ要約
 1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2008年の礼拝メッセージ要約
 4月  5月  6月  7月  8月  9月  10月  11月  12月

※2003年の礼拝メッセージ要約
※2002年の礼拝メッセージ要約
※2001年の礼拝メッセージ要約


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