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メッセージ集:2011年4月

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体調が悪かったり、介護が必要だったりして教会に集えない方々のために、毎週の礼拝メッセージの要約の掲載を行っています。教会に行ってみたいけど、いきなり行くのはちょっとな、という方も、ぜひ覗いていってもらえればなと思います。

でもやはり、できることならば教会に来て礼拝にでる方が、メッセージも聞きやすいし恵みも違ってきます。どうしようかなぁと迷っている方、ぜひ一度教会にも来て下さいね!

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2011年4月24日

「人生に奇跡を起こされるお方」 ヨハネ2:1−11 金井辰雄先生

ガリラヤのカナで結婚式がありました。ところが、困ったことが起こりました。お客様に出すぶどう酒が足りなくなってしまったのです。これでは、折角のお祝いが台なしです。マリヤは、そっとイエス様に近づいて「ぶどう酒がありません。」と言いました。すると、イエス様は「わたしのときは、まだ来ていません。」と言われました。けれどもマリヤは、イエス様がきっと何とかして下さると信じていたので、手伝いの人たちに、「あの方が言われることを、何でもしてあげて下さい」 と頼みました。 手伝いの人たちは、イエス様の言う通り、6つの水がめにたっぷりと水を注ぎました。そして、宴会の世話役のところに持って行きました。すると、驚いたことに水がめの水が上等なぶどう酒に変わっていたのです。水をぶどう酒に変えることの出来たイエス様は、私たちの人生にも奇跡的な変化を起こし、人生を味わい深いものとしてくださるのです。手伝いの人たちは、イエス様の不思議なご命令に従いました。(あなたなら、どうですか。) そして、イエス様の驚くべき奇跡を目撃しました。イエス様のみことばに従うなら、私たちは自分の想像を超えた神の御業を体験出来るのです。

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」  ヨハネ2:11

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2011年4月17日

「心がうちに燃やされて」 ルカ24:13−43 金井つる先生

主がよみがえられた日曜日の午後、二人の弟子がエマオに向かって歩いていた。彼らは、失望と混乱の中にいた。その彼らにイエス様ご自身が近づいて下さったのである。
1.失望の中でも一緒にいて下さるイエス様
(1)エルサレムを背にした二人の弟子。主の復活を信じることの出来ない彼らは、神様に背を向け歩き始めた。しかし、主は共にいてくださったのである。
(2)暗い顔つきになって、立ち止まった弟子達。復活が自分に関係ないこととして論じられている時、人は途方に暮れ、暗くなる。
2.弟子達の解釈、イエス様の解き明かし
(1)弟子達の解釈   イエス様は政治的、地上的な救い主である。
(2)イエス様の解き明かし   十字架と復活を聖書全体から説明された。
3.イエス様ご自身を証明された
(1)主の臨在を熱心に求める。主が共にいて下さることが素晴らしい祝福である。
(2)イエス様ご自身が真ん中に立たれた。主は取り乱しているその場所、その中心に立って下さるお方である。
復活の主と出会い、私たちも心燃やされて主の証人となりましょう。

「そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。』」    ルカ24:32

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2011年4月10日

「ゲッセマネの祈り」 ルカ22:39−53 金井辰雄先生

弟子達との最後の食事を終えると、イエス様は弟子達を伴って、ゲッセマネという園へ向かいました。ここで弟子達は、たびたびイエス様と語り合い、イエス様が祈る姿を見ました。この日もイエス様は、弟子達から少し離れたところで、ひざまずいて祈りを始めました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにして下さい。」この杯とは、十字架の苦しみという意味です。イエス様は、額から血の汗が流れ落ちるほど真剣に祈られました。それは、ご自分が十字架で死ぬために世に来られたことを知っていても、全人類の罪を背負って、愛する父から引き離されるのは恐ろしく不安だったからです。ご自身の身が引き裂かれるような苦しみに満ちた祈りを経て、ユダに導かれた群衆がご自身を逮捕するに任せられました。イエス様は、祈りによってご自分のなすべきことを正しく選択されたのです。願うことばかりが多い私たちの祈りですが、こうした信頼と受容もイエス様の祈りから学ぶべきなのです。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 ルカ22:42

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2011年4月10日

「よいサマリヤ人のたとえ」 ルカ10:25-37 岡部高明先生

東日本大震災から一ヶ月、想定外の巨大地震、大津波、原子力発電所事故の三重苦に直面された方々を慰め、励まし、支えるために国内外から多くの協力援助と善意が寄せられており敬意を覚えます。しかし、復興への道のりは険しく長期間に及ぶことは避けられません。「よいサマリヤ人」の教えから今日の赤十字運動が起こりましたが、このたとえは単なる慈善運動を勧める教えではありません。主イエスは律法の専門家が答えた「神の律法を完全に守ることで永遠のいのちを得ること」がいかに難しく現実的には不可能であることを自覚させようとされたのです。このたとえを文字通り実践して私たちの隣人になってくださったのは主イエス・キリストです。自己中心を悔い改めて主イエスの愛と恵みに生かされてはじめて助けを必要としている人々に寄り添う隣人となれるのです。

「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」   ルカ10:36,37

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2011年4月3日

「苦難の益」 詩篇119:65-72 金井辰雄先生

詩篇119篇の著者は、「苦しみに会ったことは私にとってしあわせでした。」 と歌っています。 私たちが、人生で経験する様々な苦しみは現実的なものです。程度の差はありますが、全ての人が何らかの苦しみを経験します。聖書は、バラ色の人生、非現実的な救いを約束しているのではありません。それどころか、むしろ人間のどろどろした暗闇の面を暴き、現実の世界で右往左往する人間の姿をそのまま描いています。しかし、聖書が人類に希望を与えてきた理由は、苦しみは良いことになりうるというメッセ−ジの故です。苦難という廬(ろ)を通されて、不純物が取り除かれ、人格が練られ、優れた品性が身につくようになるのです。これこそ、値打ちがあり美しいものではないでしょうか。また、苦しみに会ったとき、それを人生の教師であるとして、迎えることが大切です。何故なら、この教師は、順調な時には解らなかった霊的真理(神のことば)を教えてくれるからです。 苦難に直面して信仰から離れて行く人もいれば、苦難がバネとなっていよいよ強い信仰に飛躍して行く人もいます。 心から自分の告白となれるようにお祈りしましょう。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」  詩篇119:71


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