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歴史・沿革

わたしたちの教会は、1925年(大正14年)からの歴史のある、 プロテスタントの教会です。

教会は、「福音伝道教団」というグループ(宗教法人)に属しています。よく間違えられるのが、「え、プロテスタントの中にも派閥があるの?」ということですが、そうではありません。足尾銅山の鉱毒被害に世界が注目し、それに心を痛めた多くの宣教師が栃木・群馬・埼玉などに来て、キリスト教を伝えたのです。そこでの活動が宗教法人として認められたのが「福音伝道教団」、そしてその活動を通して伊勢崎にも、「伊勢崎キリスト教会」ができたのです。

1890年頃からの歴史があるので、教団自体も「戦争による教団解散」など、いろいろありました。伊勢崎キリスト教会も、はじめは宣伝カーやテントでの伝道、そしてブロックを一個一個作ってのお手製の鉄筋コンクリート?教会堂の建築(恐ろしい・・・)など、いろいろな時代を経て、現在に至りました。

その教団と教会の歴史を、簡単に説明したいと思います。これを読んで、へぇ、そういう背景に成り立っている教会なんだ、って分かってもらえればうれしいです。


1.足尾鉱毒事件と足尾ではじめてのクリスチャン

鎖国が解かれ、明治時代に入り、日本は急激に国力をつけるようになりました。そのうえで欠かせなかったのが「銅の発掘」です。足尾銅山(栃木県)の開発は、この時代急激に進められていきました。ここで一つの悲劇が起こります。1890年、渡良瀬川の大洪水による「足尾銅山鉱毒事件」です。何の措置もとられず続けられる開発に対し立ち上がったのが、佐野(栃木県)出身の政治家、田中正造でした(彼がクリスチャンだったかどうかは分かりません。遺品の中に聖書があったことだけが知られています。彼が内村鑑三に向かって言った、「キリスト教は信仰するものではなく実践するものじゃないのか。聖書を捨てて行動しろ」という言葉は有名です)。田中正造は最終的に1901年、「天皇直訴」に踏み切りますが、その時代の天皇直訴の最高刑は死刑でした。

こういう状況の中、イギリスのブラントという宣教師によって、1894年、足尾に最初の受洗者が現われました。これをきっかけとして、足尾を中心として少しずつキリスト教が広まっていったのです。

2.伊勢崎への伝道と第2次世界大戦

写真:早乙女正行先生キリスト教が広がる中、伊勢崎で初めてキリスト教が伝えられるようになったのが、1925年、早乙女正行(左写真)の開拓伝道によってでした。この頃は伊勢崎に教会堂なんてものはなく、人の家などを借りての伝道です。でもこの頃は館林・尾島・太田・境(以上群馬県)など、多くの教会が作られていき、現在の教団の前身である「福音伝道協会」もできた時代でした。

しかし、日本はその後第2次世界大戦に突入していきます。そしてその頃日本に存在していたキリスト教会・教団は、「信仰によって天皇の道に徹するべし」とされた「日本基督教団」という一つの教団に強制的にまとめあげられます。そして、戦争が激化するにつれ、キリスト教は敵国の宗教として迫害を受けるようになり、教会は解散し、牧師たちは徴兵に取られ、宣教師たちも軟禁されていきました。

3.戦争の終わりと天幕伝道

1945年、戦争は終わり、軟禁されていた宣教師も解放されました。そしてGHQの宗教法人令により、わたしたちのグループは日本基督教団から正式に脱退し、「福音伝道教団」として再びスタートすることになりました。

戦後の混乱を乗り越え、伊勢崎で再び本格的な伝道活動が展開されるようになったのは、1951年のことです。この頃は宣伝カーでの伝道やテントでの集会(天幕伝道)だったのですが、多くの人たちが集まり、キリスト教を受け入れ、クリスチャンとなりました。そして平和町(当時福住町)に土地を買い、いよいよ教会堂を建てようということになったのです。(下の写真左が宣伝カーによる伝道、右が天幕伝道)

写真:宣伝カーと拡声器による伝道    写真:大勢の人が集まる天幕伝道

4.はじめての会堂建築

1955年、いよいよ念願の会堂建築が始まりました。そうは言っても、お金がありません。そこで始まったのが、教会員手作りの会堂作り!ブロック製造機を借りてきて一個一個ブロックを作り、それを積み重ねて会堂を作るのです。一応鉄筋コンクリート製? それでもこの頃は「自分たちの会堂ができる!」と、みんな喜んで会堂を作ったのです。そして1956年、無事に「初代:伊勢崎キリスト教会教会堂」が出来上がったのです。(下の写真左がブロックを作っているところ、右が出来上がった教会堂)

写真:ブロック製造機でブロックを作る    写真:ブロックで作られた初めての教会堂

5.教会員が増え、新しい会堂ができるまで

ブロックの会堂ができてからも、クリスチャンの数は増えていきました。毎年クリスマスには「市民クリスマス」が行なわれるようになり、「希望のダイヤル」も設置され、教会の活動も充実していきました。これまでの教会堂に2階部分を建て増ししましたが、それでも狭く感じられるようになってしまいました。会堂の老朽化も進み、壁にはひびが入って、新しい会堂を建てることが急務になっていました。

そこで、1987年、教会堂建築準備委員会が設置され、新しい会堂を建てることについて話し合いが持たれ始めました。すると折にかなって、1990年2月、伊勢崎市の「中心市街地再開発構想」に基づいて、市当局から平和町の境内地と大手町の市有地との等価交換について提案があったのです。通りに面したこんな良い土地が与えられるなんて! このことで、私たちの新会堂建築は急速に現実味を帯びてきました。そして1992年3月、めでたく今の教会堂が出来上がったのです。(写真上左:建て増しされた教会堂、上右:その教会堂の内部、下:建築中の現在の会堂)

写真:建て増しされた旧会堂と教会員    写真:旧会堂内部の様子(賛美集会)

写真:建築中の現在の会堂

現在、礼拝出席は約60名。そしてわたしたちは、伊勢崎キリスト教会が、明るく、楽しい、みんなの教会となっていくことをめざしています。

「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなる キリストに達することができるためなのです。」(新約聖書・エペソ人への手紙4章15節)


※もう少し詳しく知りたい方へ

同じ「福音伝道教団」の「大胡キリスト教会」のホームページには、かなり詳しいこれまでの教団の歴史が綴られています(制作・監修:高木寛先生)。もし興味のある方は、そちらもぜひ覗いてみてください。

→大胡キリスト教会HP内:「目で見る教団の歴史」

→大胡キリスト教会ホームページ


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