2003年5月

5月4日 岡部高明師
というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ 1:18-20)
新型肺炎(SARS)が猛威を振るっています。病状の正確な判断と病原菌の発見、感染防止の対策の遅れなどが世界的な感染を招いたと伝えられています。すべての人々を蝕んでいる罪と死についてはどうでしょうか。罪を罪と認めず、死を忌み嫌い、避けるだけでよいでしょうか。パウロは、福音の持つすばらしい救いの力を明らかにするため、救いを必要としている私たちの窮状について述べています。私たち人間はすべて神の怒りの下に置かれています。怒りの神ではなく「神の怒り」の下にあるのです。被造物や自分自身を通して認識できる真の愛なる神を無視し、否定し、自分を絶対化し、自己実現のために神を利用(偶像礼拝)している人間は、無知と情欲のままに放任され、堕落と腐敗と永遠の裁きに向かっています。十字架上で私たちに代わって神の怒りを受けられたキリストに頼る以外に、赦しと解放の道はないのです。


5月11日  中川信嗣師
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(ヨシュア1:9)
ヨシュアはモーセの後をついで、イスラエルの人たちを神様が約束した場所に連れて行くためにリーダーになった人です。神様はヨシュアに向かって「強くありなさい」「雄雄しくありなさい」と言われました。神様はヨシュアに「モーセとともにいたように、あなたとともにいます」と約束されました。そして二つの命令を語りました。一つは神様の命令から離れて、右にも左にもそれてはならないということ。もう一つは神様の命令をいつも口ずさみなさいということでした。私たちも同じように、神様が与えてくださった聖書を日々口ずさみ、そこから離れず、神様とともに歩むなら、恐れるものは何一つないのです。

5月18日 岡部高明師
そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。(ローマ2:3-5)
「人のふり見て我がふり直せ」(他人の性行の善悪を見て、自分の性行を改めよという意味:広辞苑)といわれます。自分の生き方や行動を他人から学び、反省するだけでなく、神の基準(律法)に照らして悔い改めることが必要です。パウロは神の選民と自認するユダヤ人やいわゆる道徳家と自認する人々が、軽々しく他民族や他人を批判したり、さばくことに対する神の裁きについて警告しました。主もマタイ7:1-5で、他人をさばく前に自己吟味をするように教えられました。すべての人への最後的な審判を延期している神の忍耐と、悔いた心をやさしく受け止めてくださる神の慈愛を軽んじることなく、謙虚に罪を悔い改め、主の赦しを求めましょう。


5月25日 野外礼拝 中川信嗣師
しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。(Tコリント12:11)
私たちのまわりには、同じ木や同じ花の中にもいろいろなおおきさやかたちをもったものがたくさんあります。私たちも同じように、神様が一人一人をちがうようにつくられました。そのちがいは人にいばったり、じまんしたり、ぎゃくにがっかりしたり、かなしんだりするためのちがいではなく、まわりの人たちがよろこぶことをするために、ひとりひとりがちがうものとして神様からつくられたのです。