2002年9月

9月1日
また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(ヨハネの黙示録 21:6-8)

 新しい天と新しい地における栄光と祝福は、2、3章の七つの教会に送られた手紙にしるされているように勝利を得た者に与えられるものです。即ち誘惑を受けても最後まで主への忠誠を貫き通したもの、汚れに染む危険があったにもかかわらずに最後まで純潔を守り通したもの、あらゆる境遇の中で主に対して誠実に生きたもの等に対してアブラハムやダビデに対して約束されたと同じ祝福が与えられるのです(創世記17:7,8、Uサムエル7:14)。しかし、キリストよりも無難で安楽な生活を求め、試練を避けるために信仰告白を恥じ、この世の汚れに身も心も染まり、聖徒たちへの迫害者となり、不誠実や不品行を行い、迷信を信じ、偽りの神々を礼拝するものは、神の裁きを招くと宣言されています。この約束と警告をいつも念頭において誠実な悔い改めと信仰告白にふさわしい生き方を守り続けましょう。



9月8日  中川信嗣師
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 (第一ペテロ 2:22-24)

 教会のシンボルというと何を思い出すでしょうか。多くの方々が十字架を思い出すのではないでしょうか。十字架とは死刑の道具でした。しかし、教会は十字架を自分たちのしるしとして掲げてきました。なぜなら、十字架こそが私たちとイエス様を結び付ける大切なものだからです。イエスさまは十字架において肉体的にも、精神的にも、そして何より、神様から捨てられるという苦しみを受けられました。それは、本来私たちが受けなければならなかった苦しみでした。しかし、イエス様は私たちの身代りとなって死んでくださったのです。私たちの身代りに十字架にかかって死んでくださったイエス様を覚えて、今週も歩みましょう。


9月15日 
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。(ヨハネの黙示録 21:10,11)

  使徒ヨハネは御使いに連れられて高い山の上から「小羊の妻である花嫁」の住まいである聖なる都エルサレムを見せられました。この都は千年王国時代の首都を指すと解釈する学者もいますが、「大きな高い山」は現実の山ではなく、全体を見渡せる地点に連れて行かれた経験を指すとして、新しい天と地にふさわしく神の御手によって整えられた聖なる都と理解することができます。主は永遠の御国の栄光のすばらしさを、聖なる都の壮大な規模と華麗さを示すことで、ヨハネを通して啓示されたのです。高い城壁の四方にある十二の門に書かれている十二部族の名前と城壁の十二の土台石に書かれている十二使徒の名前は、この都の住民が、選民イスラエルとイエス・キリストを信じて救われたキリスト教会に属する民であることを示しています。神の栄光によって宝石のように輝く聖都が私たちの住まいです。


9月22日 
また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。 また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。 その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。(ヨハネの黙示録 21:15-18)

  聖なる都についての記述を象徴的に解釈する立場は「ここに示されている特別な詳細の点が、聖書においては字義通りの意味以外には説明されていないことと調和させることが困難である」(ジョンF.ワルブード)といわれています。「一万二千スタディオン」は2220km (1スタディオンは185m)です。北海道から九州までの直線距離は2000km足らずです。このような規模の都は世界歴史上存在したことはありません。都の形状は「長さも幅も高さも同じ」ですから、立方体、ピラミッド型、球体などが推定されますが確定できません。城壁は「百四十四ペーキュス」で64.8m (1ペーキュスは45cm)の高さになります。都と比較すると低いものです。あらゆる宝石がふんだんに用いられている城壁、混じりけのないガラスに似た純金で作られている都や大通りなど、すべてが神の栄光と神のきよさの美しさにふさわしいものであることが明らかにされています。


9月29日 
私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。(ヨハネの黙示録 21:22-26)

  「新しい天と新しい地」における聖なる都、新しいエルサレムは、これまでの地上の諸都市とはまったく違います。神殿はなく、神ご自身が親しく人々と共にお住みになります。都は子羊である主の栄光によって輝くため、照明用の太陽も月も不要です。あらゆる闇と敵対勢力が排除されているため、警戒のために門を閉じる必要もないのです。いかなる不潔なもの、道徳的・霊的な汚れもなく(27節)、戦争も悪もなく、国々や諸民族は親しい交わりを続けます。かつて地上で栄光を受けた人々は、すべての栄光の根源である神に栄光を返すために、この都に来て、神を礼拝して、その栄光を証言するのです。