2002年8月

8月4日
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 (ローマ 6:3,4)
 バプテスマは、新約聖書の原語(ギリシャ語)のバプティスマを音写したものです。バプティスマは「浸し、浸すこと、漬けること、沈めること」の意味です。洗礼は、主イエス・キリストが聖書の中にすべての信者に対して普遍的で永続的かつ個人的義務として命じられた水を用いる礼典で、次の真理を象徴しています。@クリスチャンが罪を悔い改めたことを告白し、神が赦してくださったことを宣言すること Aクリスチャンがイエス・キリストにつく(結ばれている)者とされていること Bクリスチャンがキリストと共に死に、葬られ、キリストと共に復活し、三位一体の神との交わりに入れられていること などです。水の中に全身を浸すことによって、キリストと共に死んだことを示し、水の中から立ち上げることによって、これからは主イエス・キリストにあって生かされ、復活した者として新しいいのちの歩みに入れられたことを示しています。信仰による決断(ローマ6:11)と手足を捧げて(ローマ6:8、12-13)聖霊の導きに従って歩む(ローマ8:2、11-16)ことがクリスチャン人生の祝福に至る道です。


8月11日  中川信嗣師
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:6,7)
 私たちは、毎週、イエス様について「聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」と告白しています。この告白はどのような意味を持っているのでしょうか。この告白は、イエス様は完全な神様であり、完全な人間であることを信じていると告白しているのです。それは言い換えるなら、私たちはイエス様を神として畏れ、礼拝する必要があるということであり、同時に、イエス様は私たちと同じように弱さや苦しみを通られ、私たちを十分に理解してくださる方であると信じているということです。この二つのどちらか一方をも失うことなく、過大評価することなくバランスよく信じることが大切なことです。


8月18日 
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録 21:3,4)
  ヨハネは新しい天と新しい地と新しいエルサレムの幻に続いて、天の御座からの大きな声を聞きました。その光景の霊的な意義を語るものでした。新天新地のすばらしさは、神が人と共に住むことにあり、その交わりの親密さと、ゆたかな慰めにあります。そこにはもはや、現在の天や地に充満している死や、悲しみや、叫びも、苦しみもありません。アダムの罪の結果として、すべての人間に与えられた最後の敵である死(Tコリント15:26)も完全に滅ぼされます。新しい天と新しい地を汚すであろうと思われるすべての不幸の根源がすっかり取り去られてしまうのです。「すべてを新しくする」主に信頼し、希望を託しましょう。


8月25日 中川信嗣師
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。  (ローマ 5:8)
  私たちは毎週、「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」と使徒信条で告白します。なぜピラトの名を私たちは告白するのでしょうか。ピラトとは地方総督でした。イエス様を十字架につけるための判決を下した人物でした。私たちがピラトの名を告白するのは、まさにピラトの支配した時代にイエス様は私たちのために十字架に死なれた事を覚えることであり、ピラトではなく、私こそがイエス様を十字架につけたということを覚えるためであり、何より、この時、神様が私たちに対する愛が最も明らかに示された瞬間であるということです。