2002年7月
7月7日
千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。(ヨハネの黙示録 20:7-9)
サッカーのワールドカップ開催期間中、世界は期待と興奮と融和の雰囲気に包まれました。それに水をさすような武力衝突事件が起こり、他の地域でも緊張関係が続いています。イエス・キリストの千年に及ぶ至福の期間が終わると、すぐにサタンとその支配を受けた諸国民が神の聖徒たちと都に向かって反抗を開始します。「ゴグとマゴグ」は、エゼキエル書38・39章では、ユダヤ人の仇敵であるアンティオコス・エピハネスの時代に明らかになったセルキヤ人の勢力を指すと解釈されています。黙示録では、主と教会に対するサタンとその手下たちによる全世界的な最後の攻撃を表す象徴として用いられています。これは福音宣教と教会活動が自由活発に行なえる期間が永遠に続くものではないことを示しています。最終的な審判が始まる前に福音宣教を急ぎ、ゴグ、マゴグの惑わしに欺かれないように警告していくことの必要性がここにあるのです。
7月14日 中川信嗣師
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」。シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイの福音書 16:15,16)
イエス様に対する評価や意見は今日もさまざまあります。では私たちは、なんと答えるのでしょうか。イエス様こそ、王の王、主の主、私の唯一の救い主ですと答えることが時に、困難を覚えることがあるかもしれません。しかし、イエス様は聞かれます。あなたはわたしを誰だといいますか。私たちは使徒信条の中で、「我はそのひとりご我らの主イエス・キリストを信ず」と告白しています。その告白をさせてくださる方は神様であり、またそれに生きられるように神様が守ってくださいます。その神様を信じ祈りましょう。
7月21日
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。・・・いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録 20:12,15)
国民すべてに11けたの番号をふり、住所、生年月日などの住民票情報をひとまとめに管理する「住民基本台帳ネットワーク」(住基ネット)の運用を前にプライバシー保護をめぐって議論が生じています。人は生まれると戸籍に姓名が登録され、国民としての権利や保護を得るとともに義務や責任も負う者となり、死亡とともに抹消されます。聖書は、神が「いのちの書」や「数々の書物」に私たちの行いのすべてを記録しておられることを記しています。とくに「いのちの書」に名前があるか無いかによって、神の国に入るか、「火の池」に投げ入れられるかが決まると教えています。新約聖書では、永遠の命が約束されているという意味で用いられており、イエス・キリストを信じている者の名簿ということができます。(ルカ10:20、使徒13:48、ピリピ4:3、黙示録3:5、参考 出エジ32:32-33、ダニ12:1-2)。あなたの名前は「いのちの書」に記されていると確信できますか。今日イエス・キリストを信じて登録しましょう。(ヨハネ1:12)
7月28日
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。ヨハネの黙示録 21:1,2)
20章の結びの数節に述べられた「大きな白い御座」の裁きに続いて、ヨハネは「新しい天と新しい地」を見せられました。この「新しい天と新しい地」は「以前の天と、以前の地」が新しくされたものではなく、神によって新しく創造されたものです。「もはや海もない」という表現は、現在の地球の大部分が水で覆われているのと対照的です。千年王国についての預言には海や川が言及されています(詩篇72:8、イザヤ11:9,11、エゼキ47:10,15,17,18,20,28、ゼカ9:10,14:8)が、「聖なる都、新しいエルサレム」では「いのちの水の川」(22:1,2)だけが言及されています。「夫のために飾られた花嫁のように整えられ」た「新しいエルサレム」は、キリストの花嫁である教会の象徴的な表現とも解釈されますが、この章の後の叙述には、あらゆる時代の聖徒たちが含まれていると解釈すべきでしょうし、教会自体というより、夫のために飾られた花嫁のような新鮮さと美しさを持った都市、住むべき場所を示すものといえましょう。