2002年6月

6月2日
勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。  (ローマ 12:11,12)
上記の聖句は、本年4月に召天された本田弘慈先生が愛された聖句の一つです。本田先生のご生涯はまさにこの聖句の通りであったと思います。またこのみ言葉は去る5月24日に召天された角田トキ姉にも当てはまると思います。主を救い主と受け入れたのは63歳になって間もなくのことでした。それから召されるまでの28年間、当教会で、また横浜のお子さんのご家族とともに横浜の教会でクリスチャンとして歩まれました。晩年、起居をともにされたご家族もトキ姉の生前からの願いをかなえようと葬儀の一切を教会にお任せくださいましたが、トキ姉のひたすらなる主への信仰(誠実さ)の証しの結果とも言えるでしょう。信仰の諸先輩から、信仰生活のあり方についての良き模範を学びながら、私たちの歩みを整えましょう。


6月9日  中川信嗣師
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。 (使徒 17:24,25)
アテネには、たくさんの間違った神様を信じている人々がいました。そこで、パウロはアテネの人々に本当の神様のお話を始めました。日本では、進化論という考え方によって神様がこの世界を造られたことを否定する人々が大勢います。しかし私たちは、神様がこの世界のすべてを造られたということを告白していきましょう。また神様は何でも出来るお方です。私たちはいつも神様が私たちに最善を成してくださり、そして、神様には不可能が無いという事を信じ、告白していきましょう。


6月16日 
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(テモテT 6:6-10)
"ほんとうの金持ちになりたいと思いますか。もし今、幸福で、心が満ち足りているなら、あなたはすでに金持ちなのです。私たちは、一円たりとも身につけてこの世に生まれたわけではありません。また、この世を去る時にも、一円も持って行けません。ですから、食べる物と着る物があれば、満足すべきです。しかし、金持ちになりたがる人は、もうけ話には見境がなく、すぐ悪に走ってしまいます。その結果、ひどい目に会い、心を汚し、ついには、地獄へ送り込まれることになります。お金を愛することは、あらゆる悪の根源です。中にはお金を愛するあまり、信仰を捨て、神様から離れてしまった人もいます。おかげで、そんな人はわが身を刺し通す、激しい悲しみに襲われるのです。"(Living Bible:聖書の意味を現代人にわかり易く説明した超訳)


6月23日 
ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください。」と言った。ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。             (創世記50:24-26)
ヨセフは族長ヤコブの11番目の子でしたが、腹違いの兄弟たちの妬みをうけて奴隷として売られました。しかし、神の摂理の中で古代世界の覇者であったエジプトのパロ王に次ぐ地位に引き上げられ、飢饉に悩む父ヤコブと兄弟たちなど同胞をエジプトに迎え入れました。ヨセフは臨終にあたり、イスラエルの民が、やがて神の手によって約束の地に帰ることができることを予言し、自分の骨を約束の地に埋葬することを遺言しました。ヨセフはこの遺言を通して同胞がエジプトでの恵まれた生活の中で埋没せずに神の民の信仰と希望を持ち続けるべきことを示しました。 「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。」日常生活や最後の時に関する指図を通して私たちの信仰と希望を証言しましょう。


6月30日 
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。 (エペソ2:14-17)
日韓共同開催のワールドカップサッカーは本日の決勝試合をもって幕を閉じます。サッカーが全世界的な広がりを持つスポーツであることが改めて認識されました。国語や文化を超えて一つのルールと審判の判定に従って、全員が一体となって一つのゴールを目指し、めまぐるしく攻守が変わり、一瞬のチャンスに勝敗を賭けるというスリリングな試合の展開もさることながら、過去の敵意や反目を越えて、和解と協調の心を育て維持していこうとする共通の願いの表われともいえるでしょう。特に、日本と韓国が共に手を取り合って未来に向かう歩みを始めることができたことを感謝します。ラブ群馬2002も目前に迫りました。キリストにある愛と祈りと多くの犠牲を払って来日される韓国の若い兄弟姉妹たちを心から歓迎し、共に主に仕えましょう。