2002年3月
3月3日
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。(ヨハネの黙示録20:4,5)
悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇」が縛られる千年の間(20:2,3)に行なわれるキリストによる支配について「ここで千年王国が来る。この時キリストは地上において支配し(→イザ2:3、ゼカ14:9)、サタンは行動の自由を失う(黙20:2)。聖徒たちは繁栄し(イザ11:3-5)、地は豊かに実を結ぶ(イザ35:2)。この千年間が終わると、サタンは再び自由にされ、キリストに最後の決戦をいどむが、結局敗れ去る(黙20:7-9)」と、ある聖書の脚注に記述されています。この「千年間」の解釈については、この書が黙示書であり複数の解釈が試みられています。文字通りに解釈する「前千年王国説」、王国を霊的なものと解釈する「無千年王国説」、千年の支配はキリストの再臨以前に完成すると解釈する「後千年王国説」などがあります。私たちにとって今大切なことは、主なるキリストへの忠誠に生きることではないでしょうか。
3月10日
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。(イザヤ11:9,10)
旧約聖書の中には、メシヤ(ギリシャ語ではキリスト)による地上での輝かしい栄光に満ちた時代(王国)を指し示す予型や予言が記されています。その一部はキリストの初臨に実現したものもありますが、上記の聖句のように黙示録20:4-6に記されている千年王国において実現されると理解される予型や予言も多くあります。千年王国は「新天新地」や天国とは違います。
千年王国は、メシヤであるイエス・キリストの栄光の現れであり、キリストの正義と公平な統治による平和と幸福、長寿と健康と繁栄の時代であり、人間の罪によって虚無に服した自然界がのろいから解放される期間と理解されています。千年王国については、これまで空想的、誇張的に考えられたり、一方霊的な意味に限定してしまったり、特定な聖句解釈に基づいて独特な教義を形成するなど神学的な論議の的になってきました。千年王国は「新しい天と新しい地」の予型としても理解することができ、「御国が来ますように、御心が天で行なわれる通りに地でも行われますように」との主の祈りが文字通り実現する時ともいうことができるでしょう。
3月17日
「また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」 (ルカ 13:4,5)
事件や事故が起こると、すぐに犯人や責任の所在が話題になります。関係者の方々がマスコミなどの取材合戦に巻き込まれたり、心無い人々の論評によって、悲しみをさらに深くしてしまうことも少なくありません。上記の聖句は、当時ユダヤの地を治めていたローマ総督ピラトが神殿の中でガリラヤ人たちを殺害した事件についてコメントを求めてきた人々に対する主イエスの回答の一部です。ここには短絡的な因果関係判断の危険、他人事と考えることの危険、悔い改めないことの危険について警告があります。主は続いて語られた「たとえ」を通して、神と人に対する悔い改めの実と豊かな喜びを与える実を結ぶ生き方を始めるようにと教えられました。
3月24日 須田丈夫師
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。 (マタイの福音書 27:46)
受難週に十字架上のイエス・キリストのお苦しみを思いめぐらしたいと思います。1.神がイエスを見捨てた 2.苦しみの中のイエスから学ぶこと 3.なぜイエスは苦しまれたのか 主イエス・キリストを信じている私たちは、ますます、このお方に信頼していきましょう。もしこれからの歩みの中で、神に見捨てられたかと思うようなことがあるとしても、十字架上の主イエスに倣いましょう。そして、私たちの愛する主イエスにこれほどひどい苦しみをもたらした罪を嫌いましょう。
3月31日
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。 (ペテロの手紙第一 5:10)
再臨を待ち望みながら生きるキリスト者についてこれまで三回にわたって語られました。最後の勧めは「死に至るまで忠実でありなさい」という勧めです。私たちは苦難、誘惑、苦しみを避けることは出来ません。苦難について黙示録の中に三つの象徴を見ることができます。獣、大淫婦、偽預言者です。それらは「政治的な迫害」、「不品行へのいざない」、「宗教的な惑わし」ということが出来ます。これらが終わりの日の苦難です。この苦難にどのように対処することが出来るのでしょうか。覚えなければならないことは、私たちの力だけで何とかしうる戦いではないということです。そしてまた、悪がどんなに大きくなっても、本当の支配者は神御自身であるということです。これが黙示録の全体のメッセージです。私たちには力がない、けれども「主よ、私たちをあわれんでください」と祈る時、神様が私たちを支えてくださるのです。