2002年12月
12月2日
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。(ガラテヤ3:13,14)
イスラム原理主義者たちのイスラム法に対する忠誠と献身、頑固なまでの律法主義的な生活様式は、人間中心主義で自由な生き方を求める現代人にある種の衝撃を与えました。イスラム教徒たちは自らをアブラハムとハガルとの間に生まれたイシュマエルの子孫と位置づけています。イエス・キリストの犠牲による贖いを受け入れず、マホメットを通して示されたという神の戒めを厳守することで天国に入ることができると信じています。神の前に義と認められたアブラハムの信仰と律法との関係や律法の役割が理解されると、イエス・キリストだけが、十字架によって律法ののろいから救い出して下さる真のメシヤであると信じることができるのです。私たちの信仰生活は律法の束縛から解放されて聖霊に従う歩みなのです。
12月9日
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。 (マタイ 5:17,18)
神のひとり子が、一介の人として、この地上に歩まれた目的の一つは「律法や預言者を成就するため」でした。律法は、神がイスラエルの民に与えられた十戒や様々な戒めで、神の祝福に与るための道でもありました。預言者たちは神の律法を守り行うように人々を教え、律法に従わない者には神の裁きを語り、悔い改める者の救いの約束を示しました。旧約聖書を「律法と預言者」と表現することもあります。主イエスは、アダム以来、裁きと死に定められている私たちを救うために、律法の下に人となり、律法を完全に守ってくださいました。その上で律法ののろいの下にある私たちに代わって神の怒りと裁きを受けてくださり、律法を成就してくださったのです。
12月16日 須田利子師
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。 (マタイの福音書 1:21)
ヨセフがマリヤと婚約していた当時は、婚約した者は法的には夫婦として取り扱われていた。マリヤが「ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になった」ので、ヨセフはそのなりゆきも何も知らないので当惑した。彼はマリヤを信じたかったが、事実は日ごとに明らかになってゆく。ヨセフは彼女をさらし者にしたくなかったので内密に去らせようと心に決めた。そのことを思い巡らしていたとき、神は夢を通してヨセフに語られたのでした。彼女を妻として受け入れるようにとお命じになったのであった。ヨセフは悪い夢を見たとしないで、神からのメッセージとして受け入れ、生まれるまでは大事に扱い、命じられたとおりに「イエス」(主は救いである)という名を付けたのでした。
12月23日
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 (マルコ10:44,45)
「人の上に立ちたい、人を支配したい。」という願いは、長い間、人に支配され、苦しみをなめている人々だけでなく、すべての人々の中にある願いとも言えます。今でも、さまざまな権力闘争が繰り広げられており、創造主である神に対しても、敵意と反感をあらわにしている人々は少なくありません。イエス・キリストは神の御子でありながら、人々に仕える僕の貌(かたち)をとり、死に至るまで神の御心に従われました。それは、私たち全人類の罪の贖いのためでした。すべての人は神への不従順や自己主張と人々への罪によって神の前に罪人となっています。罪の赦しを得るための償いは私たちにはできません(詩篇49:7,8)。すべての人の罪の贖いの代価として、この地上に人として歩みながら罪を犯さなかったイエス・キリストの血が必要だったのです。イエス・キリストは救い主であると共に、私たち人間の生き方の模範でもあります。
12月30日
そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」 ヨハネ6:11,12
激動の年、2001年がまもなく終わろうとしています。「輝かしい21世紀」の夢が破られてしまった一年ともいわれます。ある方々にとっては悪夢の一年でしょう。しかし、悲しみと苦しみの中でも大きな慰めや喜びもあったのではないでしょうか。年末にあたって、一年を振り返って神様の祝福と恵みを数えることは、新しい年を迎える心備えと信仰の励ましにもなります。主イエスが子供が持っていた五つのパンと二匹の魚を祝福して、5000人以上の人々の空腹を満たした奇跡は四福音書全部に記されている唯一の大きな奇跡です。しかし「余ったパン切れ」についての指示は、ヨハネだけが記録しています。余ったパン切れにはどんな意味が込められているのでしょうか。私たちは主からいただいた恵みを無駄にしてはいないでしょうか。