2002年11月
11月3日
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(コリントT12:27)
キリストのからだとは、教会のことです。(コロサイ1:24b)
また、御子はそのからだである教会のかしらです。(コロサイ1:18a)
体は一つですが、そこには色々の器官があり、それぞれの働き、役割があります。全部の器官が働くことによって統一、調和が保たれます。各器官はお互いを必要とします。ですから、互いに尊敬し、同情しあうべきです。キリストの体である教会も、耳、口に当たるリーダーや指導的な働きがあり、手や足に当たる実際的な働きがあります。しかし、それだけでは不十分で、大切なのは内蔵の働きです。外部からの有害、危険なものをキャッチ、除去する働き、きれいな酸素を十分に供給する働き、そして血液を体の隅々にまで行き渡らせる働きなど、キリストの体である教会にとってもなくてはならない働きがあるのです。
11月10日 中川信嗣師
見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。(詩篇127:3)
今日は、子ども祝福式が行なわれます。子どもたち成長を神様に感謝し、またこれからも神様に従って歩んでいくことができるようにお祈りするときです。では、聖書は子どもについて、そして親についてどの様に教えているでしょうか。子どもたちについて聖書は、主にあって両親に従いなさいと述べています。両親を尊敬し、大切するものは祝福されると約束されています。また両親については、子どもたちを行為によって教え、言葉によって訓戒することが命じられています。この機会に親子のあり方を考える時としましょう。
11月17日
御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。
「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」(黙示録22:6-7)
ヨハネはこの黙示録の中で、主イエス・キリストの救いに入れられた者の祝福されたすばらしい未来と、最後までまことの神に反抗して主イエスが与えて下さる救いを拒否する者への厳しいさばきについて、黙示にしたがって記してきました。最終章のこの箇所は「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」との御使いの言葉から始まっています。すでに現在から永遠の未来にかかわる神の御計画はヨハネを通して語られました。今度は、私たちが、これらの言葉を信じるか、真実な言葉として従うかどうかが問われています。私たちの考え方や行動は、私たちが何を信じ、何を目指しているかによって変わってきます。目先のことだけにとらわれずに、永遠をどこで、誰と共に住み、何を喜びとして生きるかを見失わないように、預言のことばを堅く守り、封じないように注意しましょう。主は「見よ。わたしはすぐに来る。それぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」と約束されたのです。
11月24日
御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。 (黙示録22:17)「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言を守る者は、幸いである。」(黙示録22:7)、「見よ。わたしはすぐに来る。それぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」(黙示録22:12)と繰り返し宣言される主に対して、私たちは「来てください。」と答えるよう命じられています。これは恵みと憐れみに満ちた主の招きです。無代価で提供される「いのちの水」が約束されています。花嫁が花婿の到来を待ち焦がれるように、キリストの花嫁とされている私たちも、花婿である主イエス・キリストの再臨を待ち望みつつ、毎日の歩みを整え、主のみこころを行なうことに励みましょう。